淡々と

おはようございます。

「にんげん学」京都講座ご出席の皆さんありがとうございます。冷たい雨でしたが感謝致します。昨日学びました「老子」の言葉はぐさりと心に刺さりました。
少し紹介します。「偉大な真実の「道」は、あふれた水のように、左にも右にもどこまでもひろくゆきわたる。万物はそれに頼って生まれてくるのだが、「道」はそのことを人に吹聴したりはしない。造化の仕事をなしとげていても、「道」はその功名をわがものとはしない。」。
いかがですか、道の偉大さ、老子の歩まんとした凄さに恥ずかしさを覚えるのは私一人ではないのではないでしょうか。少しのことをしただけで自惚れ自慢し吹聴する、その自惚れが苦しみを生み出すことも知らないのが私たち凡人、ああ情けなく嘆かわしく、恥ずかしい限りです。
「淡々と」。
「君子之交淡如水、小人之交甘如醴」『荘子(そうし)、山木』、「君子の交わりは淡きこと水の如く、小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し」と荘子も言っています。
このような君子で在りたいものです。「醴」は甘酒のようなもので甘くてベタベタしている様のことで、立派な人物の交際は、水のように淡泊であり、つまらない人間の交際は、甘酒のようにべたべたしているというのです。水は万物を生かしますが、味のあるものは一定のものにしか生かされず、好みでしか動かず、不自由な人生と為すのです。
そもそも君子は自分と合わない人とは付き合いません、「交わる」からにはよく相手を見て信頼と尊敬をもって自身を豊かに高めるため接します。「関係をキープするために」あくせく通いつめたり、贈り物をしたり、相手に媚びへつらったりはしないのです。現実によくいる利害関係からベタベタ癒着し、影では悪口を…という俗物とは違いますよという意味です。
やりとりが何年もないのに、危急のときにはかけつけるような友人関係がそうです(友人とが言い難いですけど)、困ったときにだけ来るような人間です。小人は自分の欲得の都合でしか付き合いをしませんので、醴のように事が成る前だけベタベタとして寄ってはくるのですが、直接的な仕事や利にならないとすぐ交際をやめてしまうのです。
小人は物欲に惑っていますから「徳は利の本なりなるを知らず」人格を高めよう、心を養おうなどという気持ちはかけらもなく、他者をお手本とし学ぶなどという考えもない故いつまでたっても「うだつが上がらない」のです。
自分を高められるからこそ安心し心が落ちつき淡々と長いおつきが出来るのです。物事の道理には先後、本末のあることを確かにしましょう。今日も素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は今年初めての「洋食・ぼんじゅーる」さんのお料理。マスター今年もお世話になります。毎月楽しみにしております。
マスターご夫妻とお店の様子、一品目は「和牛のお刺身しょうがポン酢」「広島カキの天ぷら」「和牛のポトフ」「霜降り和牛のステーキ、生わさび添え」、お嬢さんが買ってくれたという「可愛らしいうさぎのプランター」です。今回もほっぺたが落ちそうな美味しさごちそうさまでした。。