止水

おはようございます。

河内長野市のH社の皆さん「稲荷祭り」ありがとうございます。会長様以下幹部の皆様が一堂にしての祭事、毎年のことですが感動致します。一年必ずやお稲荷様はお加護くださいます、日々感謝のお祈りをくださいますよう。
「止水に鑑みる」。
私たちは日に一度確かに心を静めることを常とすべきです。私は水神様であります「辯財天」様を信仰しています。辯財天様は「技芸の神、学業の神、財宝の神」です。何故このように称されるようになったかと言いますと。
「人は流水に鑑(かんが)みるなくして止水に鑑みる」(荘子)とありますように、流れる水はいつもざわついていますので人の姿を映し出すことができません。これに対し、「静止した水(止水)はいつも澄み切っているので、あるがままに人の姿を映し出す」のです。
このように、私たちも、静止した水と同じように、静かな澄みきった心境でいれば、いついかなる事態になってもあわてることなく、誤りのない判断を下すことができるのです。ここから、澄み切った心境を形容する「明鏡止水」ということばが生まれたのです。
これはまた「無心の境地」「篤信の境地」と言ってよいかもしれません。なにごとでも、雑念、欲心、欲望が心につまっていたのでは、それに足をすくわれてしまうのです。既成概念をいっぱいつめ込んでいたのでは、それにとらわれて流動する情勢への対応を誤ってしまうのです。
勝負でも、仕事でも勝とう勝とうとする気持ちが先に立てば、身体がコチコチになって、ふだんの実力を発揮することができません。
対応を誤らないためには、「明鏡止水」の心境になれるかどうかが一つのポイントになります。先日書きましたが私は「お任せ」で日々瞑想し、祈ることで心を整え、世間の姿を映し出しその対応に漏れを少なくしたのです。日々心を静かに整えることは大切なことであることを知ってください、心がざわついていたのでは日々誤りを犯すのです。
日々の祈りが自然な止水の境地、明鏡止水の心になるからこそ人様への対応を確かに出来、様々な願いが成就するのです。水は外界の風や出来事で波立ちます。私たちは止まるべき所を知って心を整え一日をスタートさせるべきです。頭の中が欲に満たされ、妄想で惑わされたままスタートすべきでないのです。
一日一度365日確かな対応をするのか、誤った対応をするのかではその積みあげていくものが違いすぎることに気づくべきです(信用と不信双方とも自らが作りあげているのです、このことは自らが知らずにあるからその差が殊の外、大となります)。時に寺に足を運び瞑想を身につけてください。今日も素晴らしい一日でありますことをお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は河内長野市のH社稲荷祭り風景です。