居ますが如く

おはようございます。

心華寺「水子供養祭」おまいりありがとうございます。あなたしか知らない存在を大切にしてくださりありがとうございます。供養させていただいております私も皆様におまいりいただくことで日々安心し供養できます。今月は彼岸の月でありますので一層皆様方のおまいりを願っています。
今日は「東日本大震災」が起きて丸2年、犠牲になられました皆様の祥月命日、心して追悼の法要をいたします。一昨年在京時14時46分に起きましたあの驚きは今でも忘れることは出来ません。上野から秋葉原まで歩き、翌日は東京駅まで歩き、どこでも人混み、帰宅困難者であふれるという光景、特に東京駅の混雑は表現しようがありませんでした。ご冥福をお祈り致します。
「居ますが如く」。
日々祈りを捧げます。仏様はお祀りしているのではなく、「そこにおられ」ます。目の前に存在しているのです。私はこのような気持ちで日々お祈りを捧げています。祈りは「お話、会話、対話」。「意志の交換であり、魂の交換」です。
このような思いでなければ、確かな意識、イメージもわいてきませんし感情が伝わず、皆様の祈りが通じないのです。心ある私たちは「目の前の対象物」を単なる木偶と考えてはならず、そのような思いで居る人は実際の人との出会いの時にも同じように非礼な態度となるのです。いわゆる心からの尊敬の念がその人からオーラとして発せられず感じないのです。
「気・エネルギー」は常に発しています。これはどなたでもです。ですからオーラを感じない人と感じる人の違いが分かるのです。「感じるとは理屈ではない」からです。
常日頃から祈りの文句を空念仏のように精魂込めず、目の前に御仏が居ますが如く気持ちで対話をしておりませんと、唱える言葉に熱が籠もらず、いくら力のある言葉や教えであっても、目の前に居られるのだという気持ちのない人の口から発せられる言葉は「力を感じません」。それを日常としているわけですから、対人関係時に言葉を発し交わしても人様は力を感じないのは当然です。
また護摩を修し祈るときは私の後(うしろ)に皆様方がご一緒にお祈りいただいているという存在感、気配を感じながら祈ります。そして護摩木に書かれている祈願文を読み唱えお顔を思い火中に投じます。だからこそご利益が現実となるのです。
勉強する意識でも同じです。「この人のため、あの人のためといった具体的な対象を思わず」いくら勉強をしたとしても「的が絞れず、力とはならない」のです。
的もなく漠然とした気持ちで日々を過ごすということは自らが外に気・エネルギーの無さを発しているのです。気は集中が出来るということは、気は散じているということでもあるのです。普段は四方八方に気は散じているからこそ、祈る時その気を集め、祈願者のために気を発し捉えたことをプラスして力とできるのです。
ですから人様の前に出る前、目の前に人様が居ますが如く気持ちで日々学び祈ることで気・エネルギーを蓄えることとなり、心気を一杯にしていますから自然に良い気を発するのです。良い気を無意識に自然に発するように日々目の前に居ますが如く気持ちで祈り学ぶべきです。
気・エネルギーは誰でも発しています。良い気を発するための修練に月々の法要、座禅会、勉強会にお出でください。堂々巡りをしていると感じて居られる方、一段ステップアップしたいと考えておられる方は早々のご参加をお待ちしています。
昨晩善光寺から帰られました師匠の本へ夕方お伺いする予定です。何時も心中に存在しているとは言いましてもやはり時折お目にかかり薫陶を得、心中では感じられない緊張感を肌で感じることが一番だからです。そして再び一人瞑想する時の力となるのです。明晩は「にんげん学」大阪講座、皆様のご出席をお待ちしております。どなたでも事前予約無しで参加できます、直接会場へおこしください、「老子」をご一緒に読みましょう。会場は心華寺HPに書いてあります。今週も素晴らしい一週間となりますようお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。