自分史

おはようございます。

心華寺「春季・彼岸会法要」おまいりありがとうございます。「在ますが如く」祈る。この世は滅びなければ新しい芽が出ません、道理としては明快に受け止めることができるのですが、いざ身近で大切な人との別れとなりますと、そのようにはいかないものです。だからこそ「在ますが如く」であるのが当然なのだとしみじみと思います。
東京からMさんがおまいりいただきましたありがたいですね、ご先祖様は大喜びでしょう、もちろん私もです。Mさん4月の「にんげん学」東京講座で元気に又お会いしましょう。
私も何れかこの世に別れを告げます。そのときに確かな存在の証として身近な人の心の中に「如在」としての「存在は残っていて欲しいと思うのは私だけの情でしょうか」。また「大切な恩義ある方々を命ある限り何時までも忘れてはならない」とも思います。でなければ私自身の存在そのものを否定するように感じています。
歴史に名を連ねる人だけが歴史を作るのではありません、一人一人がこの国の歴史を作っているのです。自分史を大切に私は決して縁をいただいた方を忘れません。
「自分史」。
日々の祈りの中、宗祖、伝教大師様(日本天台宗のご開祖)への報恩は当然のことですが、亡くなった両親、そして叡山から下山の縁を作っていただき社会という「ステージ・活躍の場を提供いただいた心華寺開山、故・長澤一栄尼、芳夫ご夫妻」、下関「愛宕寺開山、故・兵頭全信尼、謙一郎ご夫妻」にも日々報恩の誓いを新たにしています。
私という存在、私の歴史を確かにして下された皆様への報恩無くしては私自身が私自身で存在を否定してしまうと考えるからです。ですから日々「在ますが如く」にお仕えするのです。
このことは何も弟子に押しつけ強要するために行っているのではありません。「善責める事なかれ」です。良いことをせよ、善を行えと押しつけたとしても理解できない人間は反発し、逆に心が離れ信頼関係を失い、人間関係や親子関係を悪くしかねません。身近な者と心が離れることが一番に良くありません。
自覚がない限り、必要と感じないかぎり人は行動しないのです。心が離れ行動しないことはまだしも道から外れた行動を取るようになることが恐いのです。
自分を確かにしようとする者は、自分の身近な人を必然のもとして肯定し感謝し、報恩を行動として考え思うようになるのです。使命感に目覚めるとでもいうのかもしれません。己は「何を為すべきか」かを知る、立命、命を立つです。
私の心情の一つでもあります「縁は切られても自らは切らない」も同じ事です。自分史の恥は恥として潔く認め、しかし恥を知ることが出来た故何事があったとしても怒りや慢心に任せて「縁を切らない」ことを胆に命じているのです。「過ちて改めざるこれを過ちという」です。
心華寺で、愛宕寺でただただ祈りお仕えして己がいきいきと日々報恩の思いを尽くすことだとお中日の昨日回向文をお唱えし新たに決意しました。今日は又新たな自分史作りの「京都版ぶら和尚」です。ご参加の皆さん「島原・角屋」の前で9時50分集合です。笑顔でお会い致しましょう、気をつけてお出でかけください。今日も素晴らしい一日となりますようお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
お中日を迎え心華寺の桜もちらほら、屋根に上って撮りました、あぁあぶなかった、年寄りの冷や水と言われそうです。
大阪のKさん、一宮のGさんお泊まりでのご奉仕ありがとうございます。法要後のお供養ごちそうさまでした。相変わらず美味しくいただきました。そして東京のMさんにお供えいただいた「特選おこし古代」、久しぶりに「おこし」をいただき美味しかったです、ごちそうさまでした。