守られて

おはようございます。

毎年浅草で開催されますM先生主催「筆心展」を拝見させていただくお陰で浅草寺様におまいりが出来ます。私の実家は最上(もがみ)33観音第8番札所「六椹観音(むつくぬぎかんのん)」。現在居ますのが心華寺「観音堂」、心華寺ご本尊様や愛宕寺ご本尊様はもちろんですが、三つの観音様にお守りいただいています。
三つは「鼎(かなえ)」とも言います。三脚を思い浮かべていただければおわかりいただけると思います。三脚はどんな場所でも立つことが可能です。三という数字は「無限とも訳されます」。無限とは永遠でもありますし、そこから離れることができない、見放されない、見捨てられないということでもあります。いわゆる安定の代名詞でもあります。
「守られて」。
最上を「さいじょう」とも読むことができます。こじつけと笑われると思われますが、私は「最誠(さいじよう)」という法名を師から授かりました。いただいた当初はこのようなことは思いませんでしたが、今になって考えてみますと、「音」が同じであるという「摩訶不思議」は「守られている。何か運命の符号に守護されている」としか思いようがありません。
ある時から私は「守られているという自負、確信ができました」。ですから何か思わしくないことが生じたとしても「未来に必要な事、未来への力を付けさせるため」と考えるようになりました。「なんでと」目の前の事に疑問や不満を持たないようになったのです。その意識がどんどん強く固くなったときから素晴らしい展開がさらに増えたのです。
最上とは、そこに「止まる、到達する」という意味ではなく、更に上を目指す、自分の高みを目指す、永遠に道を歩み磨き高め社会貢献することを使命とすることです。
守られていると考えたとしても「一つのことを継続していなければ、守る方は守りようがない」のです。一筋の道を歩むからこそ守護があるのです。
皆さんも確かな「一筋の道を歩んで下さい」。そうすれば必ずや「守って下さる方、守護神が出現します」。両親があなたのことをいつも心配してくださるようにです。フラフラすることのない人生を歩むことで守護される、守られるのです。一筋の道を歩むことがなければ守護は出来ず、ただの心配(不安)しか周囲には生まれません。目に見えない守護神は現れないのです。
守られているという自覚を確かにしますと出会う人、出会う人を一層大切にできるのです。疑心暗鬼(ぎしんあんき)、疑いからは鬼しか生まれません。自分の人生を信じて歩むことこそ大勢の守護が現実となります。浅草寺本堂で読経し、祈りを捧げることが今年も出来たことに感動し、M先生はきっと観音様の化身であるのだろうと思うのです。観音様は三十三の身に化身し、無限のお姿で私たちを導き守護くださると「観音経」に説かれています。
この世は人知を越えた世界。しかし人知で捉えられない世界ではありません。感謝の心で出会えば、社会に役立つヒラメキ、発想の予感が湧き出でて、素晴らしい人を引き寄せ、未来への行動の道が示されるのです。出会いを得ました人様は守護くださる方が使わされた方だと信じますから一層大切に礼を以て出会うのです。だからこそ長いお付き合いをさせていただいているのだと益々感謝の思いを強くするのです。
何故このようなことを書くかといいますと私は自分の才能が人より優れたものは何一つないと考えています。またリードする強い力も、ですが自分が選んだ道で人様のお役に立ちたい、使命を果たしたいという「強い思いがある」のです。
孔子も災難に遭遇した時、天命、使命を受けた私を「何ができようかと、孔子を殺しに来る人間を恐れなかった」という話が論語にあります。天命、使命を果たそうとする「強い思いが孔子にあった」からです。
私も孔子のようにとは申しませんが、必ずお守り下さるという「強い思い、信念があり」ます。御仏は私を守護下さっているという確信があるのです。故に他に秀でるものがない私でも「場を与えられている」のだと感謝するのです。皆様も「思いを強くし精進ください」必ずや守護されること間違いがありません。今日も素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
浅草寺の本堂と本道脇での猿回しのお猿さん、そしてスカイツリーです。