修身

おはようございます。

昨日午前9半から「懺悔・礼拝行」が始まりました。千回立ったり座ったり「額を地面付け礼拝、敬礼、最大の気持ちを表した礼」です。「五体投地(ごたいとうち)」の行ともいいます。五体(心身)を投げ打って気持ちを表すことです。一日中「な〜む」という声が響き渡り心地よく、午後5時15分過ぎ千回、8時間超で満行。声を聞き音を感じていただけの私も清々しい気持ちになりました。
いつもお世話になっています、京都のIさんと北九州から修行にきているYくんと誠澄の三人、懸命に礼拝行を修していました。Iさんごくろうさまでした、今日は筋肉痛に悩まされると思いますが、痛みを感じた分だけきっと幸せが訪れますお疲れ様でした。
Iさんが、とても素晴らしい言葉を残して下さいました、最初は「いろいろなことに、ごめんなさい、を言って礼拝をしていたのが、最後には自分にごめんなさいでした、と」。凄いですね、天命を承けてこの世に誕生したご自身の来し方に、いいろいろ「ごめんなさいを言わずに済まなかった」というのです、「言霊がIさんの心を清めた」のでしょう、きっと。本当にお疲れ様でした、そしてよかったですね。
人間の本性はどのようなとき現れるのでしょうか、進退窮まったとき、病気になったとき、苦しいとき、楽しい時等々でしょう。いわゆる苦楽が創造を絶したときでもあるかも知れません。私たちの心身は無意識に自己防衛します。時に、どのような行動を起こすべきかの瞬時の行動判断、道理に沿った無意識の行動とするために行うのが「礼拝行」です。
現実にそうそう極端な現実は起こりえることは少ないかも知れませんが、東日本大震災等現実にありますので無いとは言い切れないのが現実です。自然災害ならずとも、対人関係、社会生活の中で「ままならない」と考えたときの「次の行動如何で大きく人生を左右する」ことは事実です。
「修身」。
身を修めることの重要性が上記に書いたとおりです。私たちは神経質になって身を修めているわけではなく、自身のことはもちろんのこと、周囲の大切な人や、社会生活で関わりを持った多くの方々が困窮した、困窮しているという現実を拝見することを多くしています。
そのようなときに、やはり見て見ぬふりはできないのが人情ではないでしょうか。自分の上に起きたことは諦められることはあったとしても、大切な人や、お世話になった人が何かで困窮したとき、私たちの行動が多くの人を支えるのではないでしょうか。
生活する上において、いろいろな事情があるのは当然ですが、その事情を超えてのサポートする力となる無意識の行動を取るために身を修めるのです。今の実情からは何もしてあげられない、と考えるの簡単ですが、何もしないで答えを出すようにならないための修養でもあるのです。とにかく行動しよう、行動意欲が落ちないように日々修めるのです。
出来ないことは出来ず、出来ることは出来るのです。だからこそ修養するのです。何もしないで出来ないと考えるような人間性を作るのではなく、出来なければ声を出す、支援を呼びかける等々、諦めない自分の確立が修養なのです。
今日は午後1時から写経会です、六根清浄の功徳、人は対象物によって気づき、惑います、惑いを少なく気づきを多くする写経、お待ちしています。一昨日からの雨が未だ降り続いていますが、今日も素晴らしい一日でありますことをお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
懺悔・礼拝行の姿です。