下問

おはようございます。

6月のご愛読ありがとうございます。今月も欠かさず書くことができました皆様のお導きです、ありがとうございます。
「下問を恥じず」とは孔子の教え、最近この言葉が身にしみております。お話しさせていただく機会を多くしていますので、言っている、話していることで己が出来ている錯覚をしていないかという慢心を恐れています。
己を棚上げして、いくら教えても教えた相手が言う事をきかないということは、私自身に行動が出来ていないのではないかという反省です。言行一致を説きながら己ができていない恥ずべき事です。昨日も言わずもがなのことを言ってしまい、反省しています。
「下問を恥じず」。
下問(かもん)を恥(は)ぢずは論語、公冶長(こうやちよう)第5、15条にあります。「子貢問(しこうと)いて曰く、孔文子(こうぶんし)は何を以て之を文と謂(い)うや。子曰く、敏にして学を好み、下問を恥じず。是(ここ)を以て之を文と謂うなり。」。
孔文子は衛(えい)の国の大夫で、必ずしも善行のあった人ではありませんでした、然(しか)るに、文子といわれる通り、文という立派な諡(おくりな、)を得ている。一体、諡はその人の生前の行いに顧(かえり)みて、その行いにふさわしい文字を用いるものであります。そこでこの点に疑いを持った子貢が、
「孔文子は何故に文という諡を得たのであるか、と尋ねた。これに対して孔子は、なるほど孔文子の行いには必ずしも十分でない点もあるが、彼は敏捷(びんしょう)に学問を好んだ。又彼は自分より身分の低い人或(ひとある)いは年令の若い人に対しても問うことを恥じない。かくの如く道を聞くことに熱心であるから、文という諡を得たのである、と答えた。」。
己が出来ない知らないことを知っていながら今の立場や年令を考え道を尋ねなくなることは厳にあってはならないことです。孔文子の如く学問を好むこと敏捷でありたいものです。だからこそ下問を恥じない私で在りたいと昨日一日思い暮らし、今月の反省としたい思い、修正しなればと思っています。
弟子を叱ったり、教え子を叱ったりするときは「己の未熟さを暴露しているのだ」と大いに自覚、下問を恥じず学び直すことを明日から否今からやらなければと改めて思っています。
論語、為政第2、17条「子曰く、由(ゆう)、女(なんじ)に之を知るを誨(おし)へんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ、是(こ)れ知るなり。」。
こうも孔子は教えます。教える立場に立つとこの「知る」ことを忘れてしまいがちになるのが私でもあります、子路は勇をもって知られた弟子でしたので、ややもすると、自分のまだ知らないことまで分かっていることのように考えがちであるから、こよなく愛する弟子の子路を思い孔子は諭(さと)したのでしょう。知る知らずを確かにしてこそ、更に知識を得ていく道であります。私も十二分に気をつけなければと思うところです。
明日7月1日は「にんげん学」京都講座「老子を読む」です。7月スタートの日です、京都地区の皆さん会場でお待ちしております。6月最後の日曜、健やかにお過ごしください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。 
Iさん毎週毎週「銭洗い辯財天様、ロウソク立て」のお掃除ありがとうございます。ローソクのように周りを照らしていただき感謝致します。Iさんを撮り振り向きましたら心がほんわかする雲。


木の枝を傘の柄に見立てました。

今朝の東の空。