自信

おはようございます。

家には必ずトイレがついています。生活する以上絶対欠かせないものです。古来から「トイレをきれいにしている家は栄える」といわれます。全くその通りです。このように言われてきたのは何故でしょうか?。
その家の家風、住んでいる人の人柄が偲ばれ、そのような家風で育った人はどのような仕事でも厭わない気質を養い、気づきを多くして率先して人の嫌がることをしますから、結局は人様の為になる仕事を作る発想となり繁栄をもたらしてしまうのです。
仕事とは結局のところ「端(はた)を楽させることが(働くになった)」のですから、当然の帰結と言えば当然のことでありましょう。昨今は「端を楽させる」ことよりも「自分が楽をしたい」という気質の人が多い故に結局の所、知識があったとしても逆にそれを生かすことができず、逆に困窮するのではないでしょうか。何故生かせないのかは「気配り、心配りの足り無さ」が考えられます。
「自信」。
私は「自信を持っています」。人様に高言するほどのものではありませんが、何度も書いていますが「私は知識とすることも苦手、考えることも苦手」です。そしてある時「素直に自分を生きよう」と思うに至りました。
素直に生きますと、「人様の能力、素晴らしさが見えてきます」。「知るを知る、知らずを知らずと」確かに知るようになり、出来なければ出来る人に素直に教えを受けることも出来るようになったのです。いわゆる背伸び、見栄を張らない。
自信とは「自分を信じること」だと思っています。「自己信頼感」といってもいいでしょう。同じ困難に直面しても、自信のある人は、キャリアと捉えて、なんとか乗り越えようと努力します。反対に自信のない人は、無理だと思いこんですぐにあきらめてしまいます。この違いはなぜ起こるのでしょう。
人は自分が成し遂げたことに対しては、自信をもてます。なぜなら、イメージできるからです。自信がない人は、情報が不足しているのでしょう。できないという解釈が先行してしまいます。では、その情報はどうしたら得られるのでしょうか?。
情報は、「求める心に集まります」。あなたの「こうしたい、ああなりたい」という純粋な思いがすべての源なのです。
よくなりたいか、なりたくないか、と聞かれれば、誰だってよくなりたいと答えるでしょう。もし、求めるものが分からないのであれば、自己イメージが低いのかもしれません。どこかで「変われない」という考え方が自分自身に蓋をしてしまっているのでしょう。
私はあるとき、この蓋が、パカッと開く音がしたのです。それは「自分を生きよう」と思った瞬間です。何故私が自信を持つに至ったのかといいますと、「考えることを止めたから(思い悩むこと)を」です。家族、師匠、兄弟弟子の「愛情」を確信し、「支えられているという概念の確立から」自信を持てるようになったのです。
一つ、一つ又ひとつという具合に「出来ることを人と比べることなく増やしていった」のです。師の言葉、友の言葉を信じたのです。論語、衞霊公(えいれいこう)第15、14条にあるように己に求めていったのです。
「子曰く、之(これ)を如何(いかん)せん、之を如何せんと曰(い)わざる者は、吾之(われこれ)を如何ともする未(な)きのみ。」。意は「孔子言う、どうしたらよかろう、どうしたらよかろうと、みずから思慮を尽くして理解を求めながら、しかも求め得ないで苦しんでいる者でなければ、私としてもその人をどうしてもやりようがない。」。
心から己の足らざる事を悲しんで、積極的に師の言葉、兄弟子の言葉に素直に従ったのです。そうすることで一つ一つ又一つ自信となり、何か問題に直面したときイメージ、モチベーションが落ちなくなったのです。教えの言葉を大切にすることで「情報を多くしたからです」。
出来ないことが恥ではなく、そのままにしておくことが己を変えないことに気づくべきです。己で己の希望という蓋を閉ざすことはあなた自身にも愛する周りの人にもよろしくありません。自信とは人様に指示を得て持てると勘違いしてはいけません、自分を信じ、自分を信頼し、学ぶことです。
昨日から心華寺で「M&Uスクール」が今夕まで一泊二日で開催されています。受講生の皆さんお暑い中ご苦労様です。今月は留守をしていますが、素直に自信を持って学んでください。今日も素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。