自覚の喜び

おはようございます。

今日は「終戦の日」です、悲惨な戦争の犠牲者の皆様へ心より哀悼の念を捧げます。皆様も追悼のお念仏をお唱え下さい。そして争いをおこさないように誓いましょう。先日も書きましたが、争いは「正しいと思う我の衝突から生まれる」のです。互いが譲り合いをすることで、互いの主張を認め合うことが出来るのです。それが家族愛、人間愛、信頼です。
朝夕ご本尊様のお勤めと皆様からお預かりしていますご先祖様へのお勤め、そして水子様へのお勤めをします。回向法要時には恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)様が表した「念仏法語(ねんぶつほうご)」をお唱えします。私の好きな和讃です。
日本で最初に阿弥陀如来の尊さを唱えたのが源信僧都です。唱えますと何故かしら涙が溢れます。それは「凡夫でいいのだ・凡夫だからこそ導かれる、凡夫と自覚することだ」という安心感からかもしれません。
「自覚の喜び」。
長くない和讃ですが、ここに書きますと長くなりますので私が感動している文を要約します。
地獄道・餓鬼道・畜生道」の三悪道を逃れ人間道に生まれたことを大いに喜び感謝すべきである。いくら卑しい身分でも畜生や餓鬼にはまさっているし、心に思っていることがかなわなくとも、地獄の苦しみは比べようもなく、人間として生まれてきたことに感謝すべきである。
生きていくことが苦しいことだと自覚した者は、素晴らしい世界に生まれる動機となる、だから人間に生まれたことを喜ぶべきだ。
弥陀を信じる心が浅くても、苦しいと自覚した者を救おうとするのが、阿弥陀如来の本願だから安心するがよい。必ず救いの手をさしのべてくださる。念仏をいうのは物憂いかもしれないが、一度でも唱えれば必ず安楽の世界に導いてくださるのだ。」
要約すればこのような意味です。今現在どんな苦労があったとしても、地獄や餓鬼、畜生道の苦しみから見れば、比較にならないよ、でも苦しいよね、と源信僧都は理解を示してくださるのです。そして「どうしたら、どうしたら」との思いで、現実を逃避しようとせず、投げ出さない人間に必ず「阿弥陀様は手をさしのべてくださる」というのです。
幼少の頃から、学校に行きいろいろ素晴らしい教育を受け、知識を得れば素晴らしい人生が得られると教えられましたが、私には素晴らしいどころか、苦しいのが勉強でした。
しかしこの「勉強を厭う心」が、楽しさを願う「標(しるべ)なのだ」と恵心僧都は説き示してくだされたのです。「どうしたら、どうしたらこの苦しさを逃れることが出来るのだ」と「避けることの出来ない現実」の正直な気持ちが、「手をさしのべてくださる御仏へのサインとなり」、必ず「私を導いてくれる使者が現れる」のだと、この法語を読んでから、どんな苦しい事柄が起きても「逃れず、捨てず、苦しみに挑戦、チャレンジしてきた」のです。
そうしましたら、目の前に「いろいろな方が現れ、現在の私になるように導いて下され」ました。
御仏は遠い世界に居られるのではありません。目の前に居られるということをこの法語に出会い、その後精進して実感しています。目の前に現れた人を信じ、今日も楽しく過ごしましょう。この法語を数百年前にお読みになられた法然上人、そして親鸞上人様が「悪人成仏す」と説かれるに至ったのです。自覚することが如何に大切かということです。苦から楽が生まれ、楽を感謝出来ない人が再び苦界に身を落とすのです。ああダメだな〜という自暴自棄のダメではなく、これでもか、これでもか、どうしたら、どうしたら、という工夫の自覚をしましょう。諦めない苦悩の人の前に必ず道が示されます。今日も自覚して歩みましょういろいろなことが見えてきて楽しくなりますよ。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。      合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
昨日心華寺ご開山のお墓参りをしたあとに素晴らしい仏に会いました。ご利益でした。