変人

おはようございます。

皆さんはご自身の価値基準というものをお持ちでしょうか?。社会の倫理観や法律ではなく、ご自身の価値基準です。例えば、60キロの制限の道路で、罰せられるからスピードをオーバーしないというのは自身の価値基準ではありません。それはただの小心者です。罰せられるから罰せられないからというようなことではなく、自分の価値基準で走ることです。
私はこのようなことを書いては憚るのですが、スピード違反で数回切符を切られたことがあります。そんなときはやはり先客がいます、その大半の方が言っている不満は、「あの車もスピードオーバーではないか、何で捕まえないんだ」、というものです。私も内心そのように思ったものです。
捕まらなければいい、あいつもやっているからいい、といった思考を持っている方は一事が万事で何事でも価値基準をお持ちではないのです。ということは表現を変えれば主体性が無いとも言えます。
制限速度を数キロオーバーしても罰があるという現実、罰せられなかったという僥倖で走るのではなく、主体性、価値基準を確かにして以来制限速度内で自由に楽しく走っています。
「変人」。
私は若い頃から結構変人といわれていました、自覚はしていました。よくルールを守ると損をするという人がおります。そうでしょうか、私は違うと思います。そんなせこい狡(ずる)を考えているようでは大物にはなれません。別に大物になる必要はありませんが、存在感のある、主体性を感じられる、一目置かれるオーラを発するような人間性は養えないとも思っています。
小僧時代、師匠が起きる前に起きることを決めていました。先輩諸氏は師匠が起きる前ぎりぎりの時まで寝ていましたが、私は約一時間半前に起きるようにしていました。こんな所が変人の変人たる所以だったのかも知れません。周囲に静かに気づかれないように起きていました。
このように起床時間は何事もないのですが、私は自己確立を図っていましたので、勉強も自分の理解度で進めていました、ほとんど他の人のペースについて行けないという状況を知っていたからです。しかし平然としていました。自分の理解度を高めるという価値観で学んだのです。
チームワークでやるときは他の人とのペースを合わせていましたが、事勉強のことではマイペースです。
知るとは自分を知ることであり、他を知ることであります。その最大の方法は学問です。自他を知ることの出来るのは自分の実力を知らなければ計ることはできないのです。いわゆる価値基準が確立されないのです。価値基準を持たなければ対応力にもならないのです。
価値基準を持たない人は悪に騙され、欲に惑わされる結果を生み出すのです。それは善因善果、悪因悪果ですから、すべて自分の価値基準が生み出したのです。
今夜は「にんげん学」大阪講座、「老子を読む」です。老子、心学を修めますと「心のスペースが広くなりますよ」。会場でお待ちしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。      合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
今朝起きましたら東の空に受け月が。