習い修練

おはようございます。

下関・愛宕寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」おまいりありがとうございます。先月は「地蔵盆・大数珠繰り」でしたので、二ヶ月ぶりのお護摩、やはりお護摩の炎は魂を浄化、心が洗われることを実感、ありがたい修法です。そしてご利益をイメージできる。
願いては必ず煩悩、妨げる物を焼滅し祈願を成就させずにはおかぬぞという炎の力を感じます。入我我入観(にゆうががにゆうかん・炎と我が身が一体となる、炎が我が身を覆い尽くす)が何とも言えない安心感。頭の中が冴えているにもかかわらず、身体が優しさに包まれたように感じる心地よさ、一体感です。
多くの添え護摩祈願ありがとうございます。必ずや皆さんの心願を成就させます、安心して日々をお過ごしください。来月も感謝と新たな祈りをご一緒しましょう。
「習い修練するとは」。
私はあるとき「習うこと、修練することの意味を何となく感じたとき」があります。学びや修練は自己研鑽のためにでもありますが、それは自己満足に過ぎず、「学びや修練の先に何があるかを確かに見据えるべきだ」と思うようになったのです。
比叡山を学問の道場として開かれた伝教大師様は修練の先に「己を忘れて他を利する」と明快に指標をお示しに成られました。明快に示された故に学ぶこと、修練することの課題が尽きず、学びも、修練も永続できるのです。モチベーションが落ちない、使命感が衰えない。
自分が学んだ事、修練したことで「人様のお役に立つことが学ぶこと、修練することの真の意義」です。
そんなことはわかっているよ、とおっしゃる方は多いのではないでしょうか、学んだ事や、修練したことを、ただ単に自己満足終わらせるのではなく、格好良すぎるかも知れませんが、やはり「世のため、人のために用いてこそ」だと思うのです。
学んだ事、修練したことで役に立てないことが多くあります、それを知ったとき又新たに学ぶ意欲、修練する意欲となるのです。煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)、世間、人様の苦しみを知ったからこそ、何とかこのような理不尽な世の中がなくなるようにと今日も祈ります。
仏法、お護摩は「生きていく道に生じる悩みや苦しみを溶かし、燃やし、安らかにするための心を教え導き、困難を少なくしてくださる」のです。そのために私は日々お役に立つため修練するのです。
明日は「にんげん学」小倉講座「老子を読む」です。この学問は「社会人として世に処するための思想がまっすぐに生育するために、要するに論理が間違った方向へ曲がらぬようにするため矯正する導き」です。ご一緒に学びましょう、会場でお待ちしております。明後日は「神戸講座」で「論語を読む」です。
今日も目の前に与えられた天命を全うし、イキイキと過ごしましょう。見返りを願ったときから心の輝きは失われます。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。      合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
信者のSさんが自宅の庭にある栗をきれいにし下ごしらえして持って来て下さいましたので、ご本尊様への御膳と皆様へのお供養は栗ご飯にしました。栗ご飯にするために栗の下こしらえが大変なのです、Sさんありがとうございます、ごちそうさまでした。
そして別のSさんに「鯛の刺身」の差し入れ、Oさんに松茸と冬瓜、アワビの差し入れをいただきました、ごちそうさまです、私は果報者。お陰で法要の後のことでもあり般若湯が普段より心地よくすすみました。
お供えのお膳

栗ご飯

松茸、焼き松茸にしていただきました

鯛のお造り、アワビの燻製、冬瓜の煮物、血液サラサラタマネギ