わき出すもの

おはようございます。

「にんげん学」神戸講座ご出席の皆さんありがとうございます。「論語を読む」いかがでしたか、秩序に沿い歩む、煩わしさやうるささを感じることもありますが、道に沿い確かに自信を深め高める喜び、基点を持っているという安心感もあります。
人生はこの内面で感じる矛盾が人間を豊にしてくれるのかもしれません、来月もお会いしましょう、予定を確かにして日々大切にお過ごしください。来月は28日(月)です、日にちを間違えませんように。
身近な人を大切にして、賢徳ある人を賢徳ある人として敬う、このようにありたいですね、人を認めることは言葉で言うことは簡単ですが、難しいのではないでしょうか、このことが出来るようであれば人生は大きく変わります。良い人材を求めていながら、出会えないのは、賢徳ある人を認めるのではなく、都合の良い人を求めているから、と反省してみてはいかがでしょう。
私の人生の道は「親が切り開いてくれた」ものと最近強く感じています。今日もこれから鹿児島に発ちます、山形からはるばる鹿児島の地へ導かれて行くことの不思議を思いますと、両親が道を切り開いてくれたのだと思うのです。
精神も肉体も親がなければ当然のこととして存在しないからです。当たり前のことにこの年になって漸く感謝できることに驚いています。
「わき出すもの」。
私は故郷を出てから随分と経ちます、ことある毎に、当たり前のことと思いますが出会いがあるごとに出会った人を頼りに、目の前に現れて下された人におすがりするという無意識の気持ちがあったように思います。このような気持ちも両親から育まれたのではと思っています。
先日も書いていますが、人は一度の出会いのために学び修練しているのです。であるなら、目の前の人のために力を尽くすことが大事であり、何よりも大切だと思うのです。
そんな思いが出会いをする度に「わき上がる」のです。何が出来るのだろう、どうすることでお役に立てるだろうという、目の前の人を確かに視よう、本質を見ようとの思いです。
そして何か喜ばしい結果が成果として現れたとき、ああ両親のお力だ、両親が道を切り拓いてくれているのだととしみじみ思うのです。逆に思わしくないことが結果として現れても、もう少し、もっと勉強しようと思える自分がいるのです。このことも両親の力だと思うのです。
過ぎたから言えるのかも知れません、臆病者の私が今日在ることができるのは、ただひたすら目の前に従うという気性(気象)として生み育んでくれた両親のお陰だと思っています。
三宮から伊丹に移動し機上に、今日も素晴らしい一日でありますことをお祈り致します。桜島が元気な様子ですのでしっかり出迎えてくれることでしょう。拝めるのが楽しみです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。      合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
昨日朝小倉を出るときに撮った風景と徳山港の風景です。