おはようございます。

「にんげん学」小倉講座ご出席の皆さんありがとうございます。ご一緒に「心学」を学び、実践の中で練り上げていく、そのたびに己の未熟さを知らされます。しかしそのたび思うのは心学を修めていて良かったと、どこかに飛んでいってしまいそうになる私がかろうじて私を保てているのは心学と祈りのお陰だと。
朋とは何とありがたいものでしょう、孔子は「朋有り、遠方より来たる有り」と志を話し合い切磋する喜びを説いています。朋と己を高める話が出来る、己を取り戻す学びが出来る、感謝です。また来月お会いしましょう。
昨日学びました五色、五味、いろいろな色や味は己を惑わす元であること、美しさに罪はありませんが、しかし惑わされてはいけない、心を奪われてはけない、「気づきにせよ」との老子の言葉、心しましょう。
「私」。
私の大切な学びの姿勢の一つに「下問を恥じず」論語、公冶長篇、というものがあります。また「子曰く、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」という論語の語があります。私が私という者をおぼろげながらも自覚したのは何度か書きましたが、中学2年生の時、三重苦を背負ったヘレン・ケラー物語「奇跡の人」という映画を観て己という人間を自覚できた思いがしました。
それまではやらされることばかりで面白くないのがこの世だと自暴自棄になっていた気持ちが変わったのです、そしてやらされることが決して悪い事ではないという自覚が芽生え、19才の時比叡山に行き、「一隅を照らす者これ国の宝なり」という言葉が魂に触れ突然私という存在に目覚めたのです。「ポストにベストを尽くすことが私の存在を確かにする」という言葉に打たれたのです。
それから私という主体性を大事にして多くの方から学ぶようにしました。私は私を磨くという事に目覚めたのです。そこで下問を恥じず。年下の方にも、どなたにでも教えを乞う、習うということです。それまで不出来な私は年下の人を見てさらに背伸びをし、強がりを言い、恥を振りまいていました。
昨今の世情を見ても若い人達の情報量の凄さ、科学技術、知識の凄さ、日進月歩を鑑みれば、学んで当然ではないでしょうか。賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に省みるという日常でありたいものです。
今日では個性という言葉は社会性を持ち、ただ単に認めて貰いたいという欲望に駆られることなく、自分を高めていこうと精進し学べば、真に個性として輝き、故に認識され評価される時代です。そのことを気づかせてくれたのも心学、向上心という言葉を私のものとして日常に学ぶということが漸く分かってきたようです。
明晩は「にんげん学」神戸講座「論語を読む」会場でお待ちしております。今日も素晴らしい一日となりますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。      合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
「お多幸」さんの懇親会の料理です。マスター今月も美味しいお料理ごちそうさまでした。ほっぺたが落ちかけました。特製裏メニューもつ鍋。

あんこう唐揚げ。