悦び

おはようございます。

「にんげん学」小倉初講座ご出席の皆さんありがとうございます。本年もご一緒ください。無為自然を説く老子を読みこのように作為的なことを書くのは憚られるのですが、よろしくお願いします。
道は触れることも、目にすることも、耳にすることもできない、体認するしかないと老子は説きます、そのとおりなのでしょう。しかし凡人である私は触れたい、見たい、耳にしたいと悩み苦しむ。
散るも一時、咲くも一時、栄枯盛衰は、生命ある物の世界の、必然的現象、分かっているのだが、はてさて自分の事となると分かっていない愚か者となる。
無心に歩む中にこそ、触れたり、耳にしたり、目にしたりではなく、魂の悦びこそが道と一体になる、理屈ではなるほどとなるどと、その通りと。
対立的喜びは苦しみを生む喜びだということは身を切るほどに実感しているが、道の中に魂を遊ばすことがまだできていない、覚っていない私である。しかし信という世界で生きたいと願う私もいる。
触れられない、見ることが出来ない、聞く事ができないからこそ魂が悦ぶ、その世界を体認し味わい歩みたい。人が悩む根源はやはり手に、目に、耳にということから始まる。
「悦び」。
地位や物、これらは根拠のない不確かなことでも、自分の居場所ができてしまいますと、失いたくないという煩悩、執着心が生まれます。
為すべき事が分かっているのであれば、そのような根拠のない物に執着しないのですが、情、煩悩というものは当に恐ろしい、体感した喜び、相対的な喜びを感じてしまうと、失いたくないという煩悩に苛まれ、思考を停止させてしまうのです。
何物も得ることがなかったときは、ひたすら己の信念のみを信じ歩んで来たにも関わらず、対立的、相対的な喜びを追求してしまう。まったく愚かな行為。
有る、無しで一喜一憂してしまう、会える会えないで一喜一憂する、己を信じることすらできなくなる、執着心とは恐ろしいものです。
それを老子は戒める。触れる、見る、聞くという感覚の喜びをを追うな、惑わされるな、無という世界に全てが在るのだ、それこそが無限の物を産み出す道なのだ、得ることではなく、使命、天命に生きることが、真に生きることだと。
しかし凡人である私は形や物、実感できるものしか信じることができず、己を疑い、人を疑い、社会を疑って身を滅ぼしてしまう恐怖に駆られるときがある。
祈り、瞑想、学び、神秘体験は真実の悦びに目覚めさせる。目覚めるまでは苦悩が多く生じ、現実に相対的な苦しみを味わい、その愚かさを確かにすれば真実の悦びを体認できるのではないかと己と対峙しています。恐さを知って勇気を振り絞っています。
今日も素晴らしい一日で在るために、無心に何も求めず歩んでまいります。一歩一歩。山登りをしているときは登ることしか選択肢がないように、人生は対立。相対を超えて歩むことが悦びです。そのように在ればいつしかすべての物、人間にとって最も大切なものを掌中にするのではないでしょうか。
明晩は「にんげん学」神戸初講座「論語を読む」、神戸地区の皆さん初講座元気にご出席ください。お待ちしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
「お多幸」さん本年も美味しいお料理ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。




※2月2日(日)心華寺「節分会・星祭り・厄除け開運・採燈大護摩・火渡り法要」午前11時。「邪を払い福を呼ぶ」外で奉修する大護摩。「一年の幸運の運気を招き寄せる」大護摩。法要終了後「真っ赤に燃え上がる残り火の上を歩く「火渡り行」」を修すれば最大のご利益が得られます。
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