執着

おはようごいざいます。

一泊二日「リーダーシップ研修」受講者の皆さんお疲れ様でした。自身の行動は自身の心を表しています。どうぞリーダーとしての自覚をさらに強くして歩んでください。皆様のご活躍をお祈りいたします。
私たちが毎日の暮らしの中で、心静かに生きることができない一つは、何事につけて「執着心」を持ち続けているからだというのが、お釈迦さまの教えです。確かにその通りで、よくよく考えてみますと私たちはお互いに、この可愛い自分というものに執着して、自分中心の考えを捨てきることができません。
そのために、その可愛い自分のためになると思うものにしがみつくばかりか、自分にとって都合の良くないと思う状態や物事がありますと、いつまでもそのことが気になって、苦しみから解放されず、心の安らぎを楽しむことができません。
考えてみますと、このように自分を苦しめているのは、他ならぬこの自分自身であって、周りの環境や、周りの人々には何の責任もないのです。これこそ自分の縄で自分を縛っているのですから「自縄自縛(じじょうじばく)」であり、その縄もよくよく考えてみればありもしない自分の空想、妄想に過ぎないのですから、「無縄自縛(むじようじばく)」と言った方が、もっと正確かもしれません。
玩具を握りしめて放さない、何でも自分の周りへ集める、何でも自分のしたいこと、言いたいことを言う、我を張って人の言うことなど聞かないなどというのは、子供のすることです。一人前の大人ならば恥ずかしい話でありますし、これが苦しみの根源であることに気づいてこそ、大人といえます。
しかし、子どもは純粋で、自分が精神的に苦しむということや、その原因が執着心を持っているからだ、ということを知りません。しかし「成人」とは文字通り「人と成ること」であり、人間ならば自分を反省する力、つまり自覚というものが起こってくるのは当然ではないでしょうか。
言い換えますと物の道理ということに気づくことです。それが大人(成人)であります。たとえば何か大切な物を失ったとします。そうなるともう残念で悲しくて悔しくて夜も眠れない、というのが人情です。
いつまで経っても失ったことばかりが気になる。だからといって苦しみ悩みさえすれば、それが出てくるかといいますと、そうではないのです。いくらもがいてもどうにもならないのが事実であります。その事実に目覚めることができないのが人間の情、業でもあります。
事実をそのままに観察する智慧、つまり「諦(あきら)め」がないのです。これを「愚痴(ぐち)」というわけです。これが人間の悲しい「性(さが)」なのです。そういう愚痴から離れることを修練することが日々の祈り、聖典読誦です。
このようなことを知っておりながら時折執着心がムクッと頭をもたげ起き出すときがあるのです。凡夫の欲望、性には、止まるところがないのだな〜と思い知らされながらも、祈りの世界を知っていることに救われてもいます。
毎日お唱えします懺悔文がありがたく身にしています。煩悩業苦に悩まされ、執着心を起こすのではなく、お釈迦様が示してくださる世界、「人間は何を多く得たかではなく」、「どれほど多くを他に与えたかによって人生の価値が決まる」と示してくだされているのがお釈迦様です。この教えに時折涙し、反省をしております。
これだけはあるとき気づきました、人を好きになって執着心が起きて苦しんだり悩んだりしたとき、それを尊敬に換えれば心が豊かになることです。お釈迦様はこのようなことにも悟られた故に心豊かに静かに人生を歩まれたのではないかと、敬愛こそ最も多くのものを与えることになるからです。だからこそお釈迦様は世界の人々に慕われたのです。
人間は同じ心もって共に苦労し分かち合う仲間がいれば何を得られなくとも幸せです。それを自分を先に可愛いがるということから執着心として争いをしてはならないのです。このようなことを知ったのも悩み苦しんだおかげかもしれません。今日は日曜日です心静かにお祈りください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。