幸運は

おはようごいざいます。

私は日々祈ります、それは強くなるために祈るのではなく、謙虚でありたいと考えるからです。人は人様に対したときいかに謙虚になれるかで世界が違ってくるとこれまでの経験が教えています。弱い私はいつも突っ張って生きていたからです。
私の人生観が変わった最初の出来事は「ヘレンケラーの映画、奇跡の人」を観てです。その次は東京に出て学問に志し挫折感を味わっていたとき「比叡山開祖、伝教大師」の「一隅を照らすこれ国宝なり」「ポストにベストを尽くす人が国の宝だ」という言葉との出会いです。
不出来な私は受け入れる、謙虚になることが一番嫌なことでした、受け入れれば不出来がわかる、バレるという愚かな考えにとらわれていたからです。愚かだなどと、とうに早くから人様にバレているのにも気づかない愚か者でした。
あるときふと気づいたことがあるのです。「人生の出発点は自分では選べない」。「この世を去ることも」同じように。
しかし、周りを見てヘレンのように目も耳も口もきけない、また生まれながらにして天才と言われる人もいる、逆の人も、こうしたことは運命かもしれません、では運命はどうにもならないものなのか、と。それは違うのではないかと考えるようになったのです。
それは、運命は天が差し伸べる救いの手ではないかと思うようにしたのです。私が病身で生まれたのも、愚昧に生まれたのも、多くの気づきを与えるためだったのではないかと、自分の運命を引き寄せるのは、すべて自分の自覚、力次第ではないかと周囲を見て感じるようになったのです。
又、人間として一段と成長するには、辛い時期を経なければならいのではないかとも。運命を甘んじて受け入れて、強い心を養い育てなければいけないのだと感じたのです。
運命そのものは変えられないかもしれませんが、運命を受け入れる気持ちは持つことが出来る。そこからしか何事も始まらないと覚悟をしたのです。そのためにも謙虚であれるように祈るのです。
それから少しずつですが様々な状況の中で自身を磨き、切磋琢磨という言葉の意味も少しは体得したようにも思います。受け入れる覚悟のないときはただ逃げ回りチャンスを自ら逃していたようにも思います。
このように考えられるようになったのも、やはり弱い人間としてこの世に生まれてきたからだと思っています。受け入れるしか生きる術を持たなかったのも天命と今では喜んでいます。
弱かったからこそ相手にされない時期もあり、そのようなことが嫌でたまらなかったからこそ、人を区別せず敬愛出来るようになったのではとも運命に感謝しています。
愛宕寺でも心華寺でもだからこそ助けてくださる素晴らしい皆様と出会えたのだと感謝しています。心華寺では昨日福島・宮城、岩手三県の材で作った復興の割り箸を7月6日チャリティでご協力いただきました皆様に差し上げるため、信者のIさんを筆頭にSさん、Kさん、HさんTさんが袋詰めをしてくださいました。幸せ者です私は。
今夜も「にんげん学」小倉講座皆さんとご一緒に新たな面が磨かれることを楽しみに出かけます。皆さんもこのような覚悟で一日過ごしてみてはいかがでしょうか、新たな自分との出会いがありますように。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
愛宕寺の裏に咲いている可愛い花。

散歩していてベンチから花が、これも可愛い。


昨日心華寺で皆さんが割り箸を手作りの箸袋に入れてくださいました、きれいですよ、7月6日楽しみにしていてください。