共感

おはようございます。

「事実は小説よりも奇なり」と申します、耳目を覆いたくなるような驚きの現実。結果に至るにはそれなりの原因はあると思いますが、「過信」「疑心」がやはり人生を歩む上においてはあまり感心しません。人は臆病なくらいが良いのです。否臆病であるべきだと思っています。過信しないということは自らを知っているともいえるからです。また疑心は人を疑っているのでは無く自分を疑っているのです。
過信をしませんと、何がいいかといえば多くの人と「共感」できることです。そして「人の意見を聞き入れられる」「人の存在を認められる」「友が得られる」ことです。私は「共感を多くしたから今日がある」と思っています。そして「人の意見を聞き入れることが出来た」ことで、大きな誤りを少なく出来たようにも感じています。共感できる人間性を作ってくれた神様に感謝しています。
共感は「喜怒哀楽」すべてに於いての共感です。特に身体能力と知力に弱かった私は「怒と哀」には殊に敏感でした、怒りを覚えないようにしたい、怒り争うことのないようにしたい、哀しいことがなくなるように在りたいと、もちろん喜楽は一層共感を得ました。義を見てせざるは勇なきなり、の孔子の言葉に共感するようになった土台でもあったのかもしれません。弱かったからこそ助けられないふがいなさ、弱かったから哀しみをサポート出来ない辛さを覚えたのです。共感は表現を変えれば「侠気」男気であろうと考えます。何か周囲で困ったことがあったときその進退に停滞をおこすようであっては共感ではないのではと考えた時期もありました。そのために共感を胸に秘め大切に行動できるような人間となるため歩んでいきたいという思いが次第に強くなったのです。
私は高校を出て故郷を旅立ち不安な日々を過ごしていました。山形駅で汽車に乗る前から不安で不安でたまらなかったことを思い出します。車中でも同様、上野に降り立ったときも、下宿に入ったときも、東京から比叡山に入り修業時代も不安ばかりでした。
比叡山に入るきっかけが共感、伝教大師の「言葉、教えへの共感」です。中学2年の時から共感をして新たな一歩を踏み出したことは違いは無かったのですが、お山に入るときから、共感するという意識がはっきりしたようです。
身近な偉いお坊さん、比叡山におまいりにおいでになられる方々、そのほとんどが口をきいたことも無ければ、話したことも無い方たちです。共感できる人を見ていろいろな想像を回らせ「あのようになれたらいいな」「あんな風に楽しくあれたらいいな」等々です。
そんな思いが私を私自身を支えてくれていたようです。今でも共感の思いは変わりません。共感し想像を回らしながら「学ぶ」のです。そうしますと不思議なことに「孤独感が無く」「不安がなくなった」のです。
いろいろ不幸な出来事が社会の中で起こっています。皆さん共感しましょう。あこがれましょう。そうすることで自分の未来への歩む道が示されます。私の今日があるのは「共感とあこがれ」です。今日も素晴らしい自然、人、物と出会えるのが楽しみです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
今日のお昼、焼きそばです。ごちそうさまでした。毎日つつがなく食事をいただけることは幸せです。