おはようございます。

昨日も暑い一日でした。雲を見ていますと少し高くなり秋空のように感じます。自然はやはり秋に向かっているようです。
秋の大敵はいろいろありますが、やはり食欲という敵です。別に秋でなくとも私は食べることが大好きなのですが。比叡山時代は料理が好きでした、お山で作る料理は材料が多くありませんでしたから、春は草木の新芽、秋はキノコ等、山を歩き食材を探していたことが今では楽しい思い出です。
そんな中で感じた事は「そのものの味を知った、そのものの美味しさを知った」ようです。素材の味とでも言いますか、素朴な味の素晴らしさです。個の味といえるかもしれません、好みの味つけをせずに味わう、人様と接するときも同じではないかということも感じたときです。
今ではほとんど料理をすることもなくなりましたが、テレビの料理番組を見るのも好きです。もちろん食べることは一番好きです。ですから食べ物を粗末にする人はあまり感心しません。
子どもの頃は食べ物の好き嫌いが多くあり、だからではないかもしれませんが、同じくらい人の好き嫌いもありました。「口は我の始まり」と申します。誰しも好きな物を食べたいと思いますし、嫌いな物は欲しくはありません。我、自分のことですから、人様に何一つ迷惑をかけることなど無いではないかと考えます。しかしこの我が振るえるような立場になった時、知らず知らずに押しつけの我に変わるのが怖いのです。だから「食べ物の好き嫌いはダメ」ともいえます。
自分が嫌いな物を好きな人を嫌いになってしまったり、嫌いな食べ物が出るからあの場所には出たくない等々、世間を狭くしかねませんし、世の中で暮らすには好き嫌いを言えないときもあります。
このように見ていきますと、やはり好き嫌いは無いに越したことはありません。親しくなればなるほど食事をしたりする機会が増えますし、ワガママを言える場合と、言えない場合もあります。「味」とは、人柄とか、人間的な「本質」とかとも言い表されます。
老子12章に「五味は人の口をしておかしくさせる」とあります。「五味」とは「酸(さん)、苦(く)、甘(かん)、辛(しん)、鹹(かん、しおからい)。老子が戒めるのは美食に犯されるなという事です。偏ってしまうとよろしくないというのです。まったく、欲がないというのも、人間味のないことですので、ほどほどが大事、食べ物でも何でも節度が大事だということです。
老子は、あの味、この味などと言っている人間は結局は本物の味がわからない人間であって、惑わされていることに気づけと言っているのです。そのような人生を送っていると一生ウロウロとして終えるよ、とも。
味という字を用いて、あの人は「良い人間味がある」「渋味がある」とかいいます。人間に深い味をもたらす一つが「心学」であります。理屈では測れない味わいのある人間性に気づかされるからです。今夜は「にんげん学」大阪講座「老子を読む」。その前に「ぶら和尚」もあります。こちらへのご参加もお待ちしております。今日も良い人間味を出しましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
小さな秋を見つけました。