無に

おはようございます。

豪雨に因ります土砂災害の報がまたもたらされました。自然災害のある度にどうしようもない悲しみに襲われます。犠牲者がこれ以上出ないような方法がないのでしょうか。畏れ敬い自然と距離を置くことも必要なのではないでしょうか。亡くなられました皆様のご冥福と一日も早い復興をお祈りします。
「有は無から生ず」とは誰しも知るところでしょう。ですから「無」に帰ることが大切なのだと老子は教えます。教えとして聞いたり見たりしていますと、なるほど、そうだそうだと納得はします、実際現実ではどうかと?なりますとはなはだ怪しくなるのが人間です。
持ったモノは離したくない、毎日一からやり直せない等々、有から始めてしまう。故に無に帰してしまう、無に帰すのなら早々に離せばいいものを、離せない、そうこうしている中に何もかも失ってしまうなどということが世間ではよくある話しです。
これらすべて「こうでなけれいけない」という何も無いときから「決めてかかっている、心が有の状態で入る余地がない」、入る余地を自分で亡くしてしまっている。無にするのならよいのですが、有心で無を作りだしている。
心学を続けていて最近頓に思えることは何か手に負えないことが生じた時は「手に負えないことなのだと素直に認めることにしています(もちろん精一杯努力して後)」。手に負えないことを考えていても何も始まりませんので、要するに「考えを改める」ことを素直に出来るようになったのです。改めて再チャレンジです。
出来なかったのだから、手から「荷物を下ろす」、いわゆる「無に帰る」そして新たに考えるのです。器は、かならず、なかが空っぽです。器は形でしかありません、形の中の空間が役に立つのです。心も同じです。心の中に何か入っていたら、何も入れることは出来ないのです。
寺の前には楠が何本かそびえ立っています。この楠を目印にして訪ねてくださる方もおられます。私が心華寺に来る前から存在していました。今よりも細く小さかったことを覚えています。しかしもう何十年も、鳥や虫、蝉、いろいろな生き物の寝床として、憩いの木として、生命の木として、また私たちに木陰、涼、四季折々の姿、清々しさ、心地よさをもたらしてくれる存在。それは「無心」だからです。楠のように私も在りたいと日々仰いでいます。木の息吹、魂、精を感じています。今日も無心に楽しい未来を描きましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
楠です、楠の成長は頗る早いのです、ちょっと強い風が吹けば枝を落とし身を防ぎ、表面は固そうに見えますがとても柔らかで、すべてを受け入れるからです。