霊性

おはようごいざいます。

当たり前のことですが、毎日日課として読経します。その経典の中の一つに
「むかしむかしそのむかし、量(はか)りて知らんすべもなき、千億(ちよろず)の劫(よ)のそのかみの、久遠(いにしえ)すでにこの最上覚(さとり)、開覚(さと)りてわれは絶間(たえま)なく、現象世界(このよ)の実相(みち)を説示(ときしめ)し、今に倦(う)むことなかりけり、云々」と始まる経文があります。
朝夕お唱えします。最近この文の意味が心に「ズシリ」と迫ってきます。考えも出来ない大昔に御仏は悟りを開かれ、その後も絶え間なくこの世の実相(みち)を説き示してくだされた。私のような愚鈍な者に対しても、倦(う)むことなく教えを垂れて下さる。なんとありがたいことでしょう。
文字は受け止める側がそこに心を感じなければ何の感動もありません、情熱ともなりません、崇高な人格も感じないでしょう。教えを私のためと感じ始めたときから、私の目の前に立つ人が私の目覚めのために現れたと受け止めるようになったのです。
それは、二千年以上この経文を伝え実践してくださる先人が数多あったことです。その方たちがいなければ教えは伝わっていないのです。この現実を思えば、今度は自分が教え伝える側に回らならなければと思っています。それが恩返しではないかと、又それが出来てこそ人間であるとも。
誰からも命令されることではなく、自覚から生じた発心、情熱が使命感になったのではないかと改めて思い知らされています。やらされているようでは、いつしか嫌気をさすのが人間です。経文の中にあるように、「倦まない」という気持ちは自覚からしか生じません。
倦まない、あきない、惰性にならないのは、自主性があってこそです。いつも、いつも変わらずにそこにあったから、私が私に目覚められた、私になれた。気づくことも目覚めることもできました。
そこに私は言葉では言い表せない「言霊(ことだま)」を感じています。経文の言葉(ことのは)が私の霊性に語りかけ響き合っていると日々新たな気持ちとなり言霊に感謝するのです。今夜は老子の言霊の世界「にんげん学」小倉講座。明晩は神戸講座「論語を読む」ご一緒に響きましょう。良い響きの一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
今日のお昼はパン食でした。ごちそうさまでした。

小倉講座のために小倉駅やってきて、コンコースで珍しい名前のわからない「ゆるキャラ」と門司港のバナナのたたき売りの口上をやって売っていましたのでパチリ,バナナのたたき売りの口上は門司港が発祥の地だそうです。