楽しむ

おはようございます。

今日から三連休、ご家族ご一緒に旅行されます方台風が接近しておりますので気をつけてお出かけください、そしてエンジョイください。楽しむ、大事なことです。楽しむ人は強いものです。ですから正しいといいますか、向上心を刺激する楽しみがよろしい。
楽しむ事と、溺れることはまったく違います。溺れて人生を棒に振るようではよろしくない。向上心、探求心を楽しめるようになれば、いつでも青春、青春とはある年令をいうのではないという方もあります。まったくその通りです。
論語、述而(じゅつじ)篇に「道を求めるために発奮しては食事も忘れ、道を楽しんでは心配事も忘れ、やがて老いがやってくることにも気づかない」というほど、学問を楽しんだのが孔子です。このように在りたいです。
楽しみ方にもいろいろ、孔子は順境では楽しみ、逆境ではくよくよしないことと教えます。順境というのは何も特別な喜びの時という意味ではありません、日々平穏無事であることです。平穏無事であることに感謝してこそ順境でしょう。
述而篇に「子曰く、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。」と、意は「先生が言われた。君子はいつでも心が穏やかでのびやかであるが、小人は常にくよくよして落ち着きがない。」。
何で君子は心が穏やかにあることができるのでしょう。それは「心を広くもって他人を許し、さまざまなことを受け入れ、自分の利害得失で動かない」からだと孔子はいいます、もっともですね。
自分の利害得失に心を奪われていますと、心が狭くなり、日々を楽しめません。人とのつきあいも難しくなるのではないでしょうか。自分も心がふさぎ込んだり、気詰まりを感じたりして苦しむことになるのです。
小人は常に自分の利害得失にばかり気持ちが行き、日々クヨクヨととした生活を送り楽しめないのです。それは自分自身を向上できる喜び楽しみに気づいていないからです。
私たちの「苦しみは、自分を悩ます問題そのものにあるのではなく、その問題に対する私たちの見方が作りだしている」ものです。孔子はだから自分の「利害得失を図るな」と諭し導いています。
逆境も苦しみも、それを自分がどう捉えるかによって対処の仕方も、その後の人生も変わってきます。人生は山あり谷あり、不遇はつきものです。鍵となるのは、不遇そのものにあるのではなく、不遇な状況にどのように対処するかなのです。
失意のどん底に陥って、死ぬの生きるのと大騒ぎし、生きる自信を失う人もいれば、不遇をそれほど重大なことと捉えず、坦々と変わらない生活を続け、泰然自若としている人もいます。
人生はとても長い旅路です。順境のときもあれば逆境のときもあります。順境のときは楽しみを享受し、逆境のときはその問題に正面から取り組まなければなりませんが、決して損得にこだわらず、くよくよ悩まず、鷹揚(おうよう)に構えて暮らしを楽しむために己を豊にする心学を学び、己の心としたいものです。よい連休になりますようにお祈り致します。
今日から弟子・誠澄は年末まで「五穀断ち、塩断ち、懺悔練行」に入ります。12月の「がん・中風・ぼけ封じ・大根焚き、お灸鉢かぶり加持」を皆様に修するため心身を清める行です。五穀は「米・麦・粟(あわ)・黍(きび)・豆」の五つ、そして塩分を摂らないという行、そして10月31日までの懺悔練行は約15キロを歩き宇治市内の諸寺社を参拝します。11月1日からは夜半33キロ、心華寺から醍醐寺の往復の懺悔練行となります。
五穀断ちの他もちろん生臭い物、アルコール類は一切口にしません。修行中の主食は「そば粉」、そして「野菜」。
僧として当たり前と言えば当たり前ですが、味つけを一切せずに、食物の味そのものをいただく、命そのものをいただく、感謝する。人様と接するときにもこのようにという思いです。そうして個々皆さんの諸病退散の祈りがパワーアップするのです。
味つけをしますと欲が食べてしまいます。ところが味つけをしませんと満腹になりますとそれ以上入りません。いわゆる欲が食べない湧かないのです。一度皆さんもお寺に来られて実際に食べてみてください。食物の本当の味をいただきますと、真実の味を味わえます。味つけは食物の真実の味ではありません、個々の好みの味です。
私たちも知識を過って身につけますと、人間性を喪失してしまう危険性があるのです。要注意です。台風の接近に注意し素晴らしい連休をお過ごし下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興、豪雨災害の復興を祈り応援します。
昨日の夕焼け、台風の加減でしょうか。





扁額が新しくなり後光が輝いているようでした。