不言

おはようごいざいます。

人を見るとき、あの人の人柄は素晴らしいね、あんな風になりたいね、醸し出す雰囲気がいいね等々人柄を表現する場合があります。そんな風に感じられるようになりたいものです。しかし難しい。
今夜は「にんげん学」小倉講座「老子を読む」。老子は「「教養」はうっかりこぼれ出るものと知る」と言っています。知らないうちにこぼれ出す、あふれ出るのが真の教養人だというのです。私とは真逆です、私などは「口耳三寸(こうじさんずん)の学」、耳に入れたらすぐに偉そうに口に出す、知ったかぶりをする、いかんですね。実力ともならず人格も高められない。老子24章に
「希言(きげん)こそ自然なれ。
飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず。驟雨(しゅうう)は日を終えず。
孰(たれ)か此を為す者ぞ。天地なり。
天地すら尚(なお)久しきこと能(あた)わず、
而(しか)るを況(いわ)んや人に於いてをや。」
意は「言葉は自然とこぼれるもの。ベラベラとまくし立てるものではない。天地が起こす台風も豪雨も二日と続かないのだから、人間ごときがしゃべり続けるなんてとうていできやしない。そんな言葉は信じるに足らない。」
老子は「不言の教え」とされるように、「言葉に価値を置いていません」。「げっぷのように自然とこぼれ落ちてくる言葉なら、まぁ信じることはできるがね」と言っています。
「オレは、私はできるんだ、知っているんだ」と言わんばかりに蕩々としゃべる人がおります。このような人が信頼を受けるかと言えば、反対で、「言う前にやって見ろよ」というのが世間というものではないでしょうか。
プレゼンもうまい、会議でも立て板に水の如くベラベラしゃべる人がおります。また世の中かがこういう人を求めているのかもしれません。老子は、「そんなに無理して多くの言葉を紡ぎ出すこと自体が、不自然だとしているのです」。
これを台風や豪雨にたとえて、「天地だってそんな無理は続かない」と言っているのです。自分の発言に対して、それが無理してひねり出した言葉なのか、自然にこぼれ落ちた言葉なのかを、一度反省して見る必要性があるのではないでしょうか。
ひきこもりや、出社拒否などの原因の一つが「しゃべりすぎ」にあるのかもしれません。私たちは知識をインプットしてそれを練り上げ、限界点でスッと抜けていく、そのくらいのアウトプット、何かの拍子に「教養がにじみ出る」ことが大切なのでは?ないでしょうか。
そういう人間性を養うためにも「黙して語らず」、言葉や教養が自然とこぼれ出るくらいにまで実力を磨き高める日々としたいですね。今夜はその第一歩「にんげん学」小倉講座「老子を読む」です。明晩は「にんげん学」神戸講座「論語を読む」。淡々とご一緒に読みませんか、各会場でお待ちしております。10月最終週はしゃべりすぎに要注意です。
土曜日から昨日までの一泊二日で心華寺で開校されました「M&Uスクール」受講生の皆さん、お疲れ様でした。アウトプットする前に習練しましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興、豪雨災害の復興を祈り応援します。