おはようごいざいます。

当たり前のことですが毎日お勤め(読経)をします。御仏にお仕えしているわけですから当然です。
心華寺では今、弟子・誠澄が「懺悔連行(さんげれんぎょう)」を行じています。今は約15キロほどですが、11月1日からは夜中33キロ、歩きながら諸寺社を参拝「六根を懺悔」する行。要するに己自身で「知ると知らずにかかわらずに生じた心身の懺悔をする」。
では何故「懺悔」することができる己ができてくるかといいますと「恥を知る」「人を知る」からです。何によって知るのかといいますと「行」です。行とは「論理を身体を通して体現すること」です。師に、先人に教えられた、授けられた「行」を行ずることで「恥じる心が養われる」のです。
修行や稽古は「古(いにしえ)を稽(かんがえ)る」ことです。道を人の道として考え形としてくだされた先人の「心を考えること」が修行の根本の一つ。ここで真の「こころ」を学ぶのです。道を道とするために先人は「どれだけの努力、研鑽修行を積んできたのか」を実感するのです。道理法則、行の形があったとしてもそれを体得することの困難さを理解していくのです。
それは道を踏襲したからこそわかる世界。今を耐え、くやしかったり、喜びを感じたりと、自分と先人と「行を通して対峙している」のです。ですから「恥を知り、人を知ることができる」ようになるのです。
知識学問からばかりでは「恥を知る心境」にはなり得ないのではないかと考えています。体感、身体を通して、現実を通し実感しなければ、「何ができて、何が出来ないのかがわからないから」です。でなければ「人を尊敬するという心は生まれないのではないでしょうか」?。
別に特定の修行といわなくとも、寺では毎日同じ時間に起きて、作務(さむ・掃除)を行います。このこと一つとってみても至難の業。起きるのと、起こされるのとでは、その気持ちにおいては天地の差があります。自主性を以て起きるか否か。寺の規則で決められているから起きるのでは、起こされていることです。行の意味を確かにしてこそ「起きることになる」のです。
起きること一つを取ってみても実践を通しますと、同じ事をやっている兄弟子たちのことを見ますと、よくぞ「キチンと毎日起きられるものだ」と感心、「起きるという一日の基本の大事を体感」。これらは理屈ではなく体を通して実際行っているが故にすごさを感じ、尊敬の念を感じ、感謝の気持ちがわき出るのです。起きられずにいますと「恥ずかしくなる」のです。そして「起きなければ何も始まらない」ことも知るのです。
このような思いをしますと兄弟弟子や同門の者たちとの切磋琢磨する喜びとなり、修行して良かった、仲間があってよかったと感謝するのです。修行とは己の人間性を豊かにしてくれるものかもしれないとそのときは思ったものです。
作務も同じです。掃除と馬鹿にするなかれ。上手な人を見れば、どれほど毎日掃除をして工夫をしてきたのかと、これまた感心してしまうのです。また庭を掃く姿が美しいのです。それが、自然と人への尊敬の念にもかわります。このような思いができるようになりますと、世間の中で活躍している人たちを見る目が又違ってきます。尊敬の念で見るようになり、友が増えるのを実感します。このことが又楽しい。
「心を磨くためには、身体が必要です。そして、身体を鍛えるためには、心が必要です。心も体も、不可分。心と体、これをふたつながら磨くのに、修行が大事となる」のです。このシステムがなければ人間としての精神は確立されないと考えています。「心身一如」でなければ、どのような人生の道を歩もうとも全うできません。
歩くだけだと侮る事なかれ、掃除かとさげすむ事なかれ、それが心身の充実を図るのです。誠澄と一緒に歩いてみてください。
明日は「にんげん学」小倉講座「老子を読む」、紀元前の道を遺して下された先人に感謝しましょう。講座に出るという実践をどうぞ。今日も出会った人に尊敬の念を以てお目にかかりましょう。その思いが皆さんの人生の展開を変えます。
学問、研究、仕事を通して先人への尊敬の念がわかないようではよろしくありません。それは本気で自分の人生に取り組んでいないという証です。良い一日を。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興、豪雨災害の復興を祈り応援します。