徳を広める

おはようございます。

昨日の朝のお勤めは今冬初めて手が少しかじかみました。お日様も顔を見せないどんよりとした冬空の一日。今朝は小雨がぱらつく冷たい朝です。
時々書きますが緊張感や試練は好きです。緊張感や試練はわざわざ自分で作ろうとはしません、ですから与えられた緊張感や試練がありませんと、自堕落になってしまうような気がしますので、自然の厳しさはありがたいと受け止めています。そして時折自分から気を引き締めるようにもしています。
呂新吾(りょしんご)が書いた「呻吟語(しんぎんご)」に「聖人の善言を聞くと心が弾み、心の中にしまうことを惜しむ。ゆえに、その教えを良く理解し、広く告げることを楽しむ。
一方で、聖人の誤った教えを聞くと身はこわばるものの、反論せずにこれを聞く。そして、温情をもってこれを解釈し、忠告の教えと受け止める。
これは、良い教えを広め、誤った教えを忠告と受け止めるのが、自分のためになることだからである。
これを「知ることに至る」という。」
これを読みますと呻吟語が多くの人の箴言(しんげん・いましめとなる短い句)となった理由がわかります。自分の価値観や考え方と異なる意見を聞くと、頭ごなしに否定する人がいます。これは自分の知識や権威を振りかざしているだけで、本当に聞いてもらいたい人は反感を持つのではないでしょうか。
私もこのようにならないためにも、まずはきちんと相手の意見を聞きたいと考えています。呂新吾はこのような在り方をすることができれば「徳を広め、過ちを改める」ことができる人間性を養うと言っています。
話しをしたり説いたりする立場に在る私はこの呂新吾の言葉を胆に銘じなければと考えています。皆さんご自身も人の上に立ってお話をしたりなさるときには十分心してください。また下の立場になって話を聞くとき、明らかに間違っている言葉を耳にしたならば、忠告と受け止められるようにしてほしいと願っています。
論語、里仁(りじん)第4、17条に「子曰く、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。」とあります。意は「孔子言う、己(おのれ)にまさった、立派な行いをなす人を見たら、自分もこの人同様でありたいと念願し、思わしくない行いをする、不賢の人を見た場合には、自分もこの人同様、不賢の行いはないかと反省する。」。
要するに、善い人を見た場合にも、悪い人を見た場合にも、常に己れの身に反省せよというのです。このようにあれば、人の善悪にかかわらず、常に益を得られるのです。
賢・不賢は、実際に交際しておる人などのみならず、書物の中に描かれる人物についても同様です。そこに「心学」の大事があるのです。
人の言動を確かに見聞きし、よい方へ改めることのできる人間性を養ってまいりましょう。今日は何かを改める一日としましょう、良い一日でありますように。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
 私たちは東日本大震災の復興、豪雨災害の復興を祈り応援します。