日常の中に

おはようごいざいます。

やはりお正月も一週間を過ぎますと駅構内は混雑していますが新幹線内は普段の乗車に戻っているようです。こう見ますとやはり普段、普通、日常が大事だということでしょう。一時の賑やかさ喧噪に惑わされずに、日々の生活、日常の中にこそ大事があるようです。
平常心是道(びょうじょうしんこれどう)という語は「無文関(むもんかん)」にある言葉です。後に高僧になる趙州(じょうしゅう)が師の普願(ふがん)に「道とはどのようなものでしょうか」と質問したところ、その答えが「平常心是れ道」の一語です。道とは高尚なものではないかと考えての質問だったのでしょう。それが「平常心是れ道」との答え、何ともわかりやすく、そして最も深遠な答えかもしれません。
私たちはややもしますと、何か特別な知識や勉強、技術を習得しなければ素晴らしい豊かな人生を歩めないと錯覚しているのかもしれません。
平常心とは、「ああしよう・こうしようとする作意する心・思慮分別や、ああすべきではない・こうすべきであるという規範などをきれいに棚上げした、文字通りの無造作な心、何ともない心」のことを言います。
最初から作意を以てことに当たるからずれや違いが生じて悩み苦しみを生み出すことになるのです。知識は得たとしてそれに縛られない、とらわれないということでしょう、色即是空、空即是色です。
何も造作しない、自分の持っているそのままで素直にことに当たることが道ですよ、人の道ですよと、普願は教えるのです。寒ければ衣を重ね、腹が減れば飯を食い、くたびれたら寝る。この平常心のほかに別の道はないというのです。
わからなければ知れば良い、聞けば良い、学べば良い、見習えば良いのです。ところが私たちは知らなければ知ったかぶりをして苦しみ、聞かず、学ばず、見習わず、背伸びしていよいよ道から外れる。
道は高遠なものでもなんでもなく、孟子も「道は近きに在り。人却(ひとかえ)って之を遠きに求む。」と諭し、ある書物には「至極の大道なるものは、むずかしいものではない。平凡なものである。ただ思慮分別にわたり、憎愛取捨することさえなければ」とも説いています。
私たちは自分の狭い思慮分別で悩み苦しみを作り、憎愛取捨し誤った人生を選択してしまう愚かを犯してはならないのです。
年末とは違った静けさの新幹線で電車の音を聞き瞑想しながら(寝ながらかな?)思う所でした。今日は午後2時から愛宕寺「年賀式」。どうぞ愛宕寺の初行事無心にご一緒ください。良い一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌