自分を認める学び

おはようごいざいます。

「にんげん学」東京初講座ご出席の皆さんありがとうございます。本年もどうぞご一緒ください。
今日は「阪神淡路大震災」から20年、犠牲になられました皆様のご冥福を心よりお祈りいたします。また改めまして被災されました皆様にはお見舞い申し上げます。お寺の屋根や小さな仏様が倒れ、大きな揺れを今でも思い出します。被災されました皆様のお心は想像できません、何かでお手伝いができるようでありましたらお申し付けください。「にんげん学」神戸講座で神戸には大変お世話になっています。どうぞお申し付けくださいますよう。
心学の素晴らしさは「良いところを見つけるように教えている」ところです。「自分を認める学び」です。論語、為政(いせい)第2、22条に「子曰く、人にして信なくんば、其の可なるを知らざるなり。後略」と教えています。自分ほど大切なものはありません。このことは誰しもが認めていることではないでしょうか。
ところが何かにつけてこのように考える人がいます。「自分はここがダメだ」「ここが他人に負けている」「こんなところが足りないんだ」等々です。
悪いところならいくらでも挙がります。その一方で、いいところを見つけるとなると、「???」となってしまうのです。これはいただけません。
自分の欠点が嫌だという気持ちは理解できますが、しかし人として進歩したければ、むしろ「自分を認めるというところから始めるべき」です。なぜなら、人の「信(まこと、誠実さ)」とは、「自分を信じる気持ちから発するもの」だからです。これを「自信」といいます。
私は中学2年生まで最悪の心を持っていました。「あれもだめ、これもだめ、あらゆるものが他人に劣っている」という思いが心を占めていたのです。要するに「自分で自分を信じていなかった」。これでは誰も信じるはずはないのです。
孔子は「人として信がなければどうしようもない」と教えるのです。自分ですら認めていない自分が、他人に認められるはずがないのです。
私たちの命は授かった命です。その授かった命を「ここが悪い」「あそこがダメ」と自分自身で自分を否定し信じることもなく扱ったのでは、天も怒り、人様も信じてくれる道理はないことを知るべきです。まず、自分を「大切なものとして認める」それが雄々しく生きる前提となるのです。私は中学2年生の時から、「できることで生きるという信を自分に持っています」、この世界に入ってから「ポスト(天命)にベストを尽くす」。
自分を大切にしてこそ自分の良いところが見えてきます。「オンリーワン」が私たちです。人様も同じです。先日の「歌会始」で入選した中学3年生の小林理央さんの歌「この本に全てがつまつてるわけぢやないだから私が続きを生きる」。感動しました。朗々と歌を詠み上げる声を聞きながら知らず知らず涙がこぼれていました。学びはすべからくこの精神でしょう。今日も自分を大切に自分を信じ過ごしましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
昨日のぶら和尚は上野公園にあります、東京国立博物館本館で開催されています「みちのくの仏像展」に行きました。博物館前にあります、明治14年に植えられた「ユリの木」です。この木を何度も撮ったのですが、木の大きさに負けてしまうのか、気の精に負けてしまうのか、木の持っているオーラを受け止めきれない写真ばかりで載せられませんでした。少しは見ていただけるのでは無いかと思い載せました。



この根が支えています。やはり根本が大切です。

今日帰りの富士のお山、雲に隠れていて余計美しく見えました。