共に在るお陰

おはようごいざいます。

心華寺「秋季・彼岸会法要」ご参拝ありがとうございます。全国から供養をお申し込みいただきました皆様、確かに供養させていただきました。数日後「回向之証」をお送りさせていただきます。
お中日を皆さんとご一緒に「ご先祖様とご恩のある先人」の皆様方へ「尊敬の念と、しのぶ心を忘れずに表すこと」ができました。ありがとうございます。
Kさんが前日から精魂込めておつくりくだされた美味しいお供養の後、恒例となった「健康イキイキ、小咄」、Sさんのお陰で爆笑に次ぐ爆笑、これもご先祖様のお陰です。皆さんありがとうございます。
人間とは弱いもので、共に在ることでずいぶん救われ、教え導かれ勇気をいただけることを実感します。
共になければ、ご先祖さまに感謝するという行為、行動も怪しいものです。人様の目がなければ今頃何もできていなかったかもしれません。
「小人閑居(しょうじんかんきょ)して不善(ふぜん)を為(な)す」からです。なぜ「不善を為す」のは「小人」なのか考えてみました。小人の思う「善」は狭義(きょうぎ)の「善」であり、多くは「独善(どくぜん)」で、己の身勝手な自己中心的で道理に添わない考えです。
大人(たいじん)は全体的、最終的な利益を考えますが、小人は自分の考えが単なるエゴに過ぎず、加飾、虚飾に過ぎない事に気がついてません。根幹(こんかん)(物事の最も重要なところ。根本。根源。「思想の根幹をなす部分など用いる」)が自己主張や自己弁護の正当化なので、やがて行き詰まりがくるのです。行き詰った挙句に思う事は「○×の横槍さえなければ私の方が論理的に正しかったはずだ。アイツの方が真理の敵なのだ」と、自説を貶(おとし)められた事に腹を立てて逆恨みして復讐心を燃やします。小人(しようじん)の悲しい性(さが)です。大勢の人と共に学ばない、切磋琢磨できない悲劇です(人格を磨くにも、いろいろな方法があるという現実を認められない)。
結果、小人は彼なりの「正義」を貫こうとしているだけなのですがその「正義」に「無理やり統合性を持たせようとして行なう全ての事が不善となる」のです。
「閑居」とは、論破されて屈辱に耐える期間の事を言いその間彼が考える事は反省では無く、報復方法なのです。それが一番の不善なのです。
夜が寝られない状態などは心理的に、反省ではありません、このような心理状態は多かれ少なかれ誰でも経験しているのではないでしょうか?。
身近な家族の生活の中で孤独に陥(おちい)らないことが、社会で孤独に陥らなくなります。社会性を持ち、身近な人の役に立てる人間性を知らず知らず養うのが日々の先祖供養であることを確かにしましょう。
先祖供養を土台として護摩祈願を修せば、車の両輪としてまっすぐに幸せという喜びの世界に進むことができます。今日は愛宕寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」。午前10時からお祈りが始まります。雨が降り風があって肌寒さを感じる今朝ですが、お気をつけておまいりください。お待ちしております。今日も周りの人々の幸せを祈る喜びの一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
Sさんが栗ご飯にと、栗を下ごしらえしてお持ちくだされたので、お供養は栗ご飯です。Sさん、ありがとうございます。秋の味覚の王様を感謝いたします。

皆さんへのお供養と、お下がりです。おまいりいただきありがとうございます。