随縁

おはようごいざいます。

今朝は東京・調布市におります。昨日友人の葬儀で入りました。会者定離(えしゃじょうり)の理(ことわり)は何人も避けることはできません。生者必滅(しょうじゃひつめつ)、私もいずれは来世に旅立ちます。やはり年令でしょうか、以前よりはずいぶんと考えさせられるようになりました。
だからではありませんが、やはり、「縁」というものを大切に思います。何かを必死に追い求めるときもありましたが、今は追い求めることをやめ、どこにあっても「志を述べる。志に従い随処に主と為す。ポストにベストを尽くす」ことがやはり一番大切だとしみじみと思います。いくら力んでもならないものはならない。力まずともなるものはなるのです。それが「縁がもたらすもの」です。「一切は縁次第である」と考えられるように少しはなったようです。
「随縁(ずいえん。運命のめぐり合わせによって自然体で身を処すること)」という考え方は、人生の海を渡るのに欠かせない「浮き袋」のようなものです。
人生とは茫々(ぼうぼう)として果てしない大海のようなものであり、完璧を目指そうとすると、「絶えず周囲との摩擦が生じる」ことになります。菜根譚(さいこんたん)にこのようなことが書かれています。
「偶然に置かれた今の境遇に安んじて穏やかに過ごすことができるならば、将来どのような境遇に置かれても悠々自適に楽しく暮らせるであろう」、「ポストにベスト」です。
この通りの心境でありたいものです。「随」とはどういう意味でしょうか?。これは「唯々諾々(いいだくだく)と従うということではなく」、「自然の成り行きに身を任せ、恨(うら)まず、焦(あせ)らず、度を過ぎず、無理に求めないということ」です。
また、勝手気ままに生きるということでもありません。「機縁(きえん。きっかけ)をつかまえ」、「悲観せず」、「硬直的(こうちょくてき)にならず」、「慌(あわ)てず」、自分を見失わないようにする。あるいは、「随」とは「達観の境地であり」、「こだわりのなさ」であり、「円熟した人生観であり」、練達した生き様です。このように在りたいものだとしみじみ思います。
「縁」とは何でしょう?。世の中の万事万物はすべて出会いであり、寄り添いであり、相性でありましょう。縁があれば何でも可能ですが、縁がなければそれまでの話です。縁はどこにでも転がっていて、いつでも存在します。
「縁があれば千里の遠くに離れていても巡り会いますが、縁がなければ向かい合っていても出会えない」、よく耳にする言葉です。
人生の区切りごとに縁が生まれ、あるいは縁を失うようです。そのたびに歓喜し、あるいは涙を流し、残念に思い、悲嘆に暮れる。その傷口を癒やすには、ある意味、縁を受け入れ生きていくしかないのかもしれません。意に添わない、ままにならない現実はあるのだということを何度も経験しながら、やはり悲しいのです。
生きていれば、いずれにせよ傷を負うのでしょう。傷を負って平気な顔ができればいいのですが、「できない」。であるならば「こういうこともあるな〜」と自分で自分を慰めて、一所懸命に生きるだけだと、自分に言い聞かせています。
今日これから告別式を執り行います。これも縁でしょう。何百キロも離れているのに、戒名を授け、お経を捧げる。いずれは、そちらへ行きますよと、声をかけなければと思います。
今日は文化の日です良い一日を、縁に従って今日はゆったりと過ごしましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
昨日ホテルの部屋からの夕景です。