心の主となれ

おはようございます。

今朝は霜が降りて寒い朝ですが、綺麗な星空です。細い「受け月」がお皿のように見え、その月のお皿に明けの明星を神が投げ入れるかのように見えます。朝から何か楽しい気持ち心になっています。
お経に、このような話しがあります。「侵入した賊を討とうとするとき、何よりも先に、その賊のありかを知ることが必要であるように、いま迷いをなくそうとするにも、まずその眼と心のありかを確かめなければならない。」
「人が室内にいて目を開けば、まず、部屋の中のものを見、やがて窓を通して、外の景色を見る。部屋の内のものを見ないで、外のものばかりを見る目はない。」
「ところが、もしもこの身の内に心があるならば、何よりも先に、身の内のことを詳しく知らなければならないはずであるのに、人びとは、身の外のことだけをよく知っていて、身の内のことについては、ほとんど何ごとも知ることができない。」
「また、もしも心が身の外にあるとするならば、身と心とが互いに離れて、心の知るところを身は知らず、身の知るところを心は知らないはずである。ところが、事実は、心の知るところを身が感じ、身に感ずるところを心はよく知っているから、心は身の外にあるということもできない。いったい、心の本体はどこにあるのでしょうか。」
また、このようにも書いています。「ここに講堂があって、太陽が出て明るくなり、太陽が隠れて暗くなるとする。明るさは太陽に返し、暗さは夜に返すこともできよう。しかし、その明るさや暗さを知る力は、どこにも返すことができない。それは心の本性、本体に返すよりほかに道はない。
太陽が現れて、明るいと見るのもひとときの心であり、太陽が隠れて、暗いとみるのもひとときの心である。
このように明暗という外の縁に引かれて、明暗を知る心が起きるが、明暗を知る心は、ひとときの心であって、心の本体でなく、その明暗を知る力の根本は、心の本体である。」
「外の縁に引かれて生じたり滅したりする善悪・愛憎の念(おもい)は、人の心に積まれた汚れによって起こるひとときの心なのである。
煩悩のちりに包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。
まあるい器に水を入れるとまあるくなり、四角な器に水を入れると四角になる。しかし、本来、水にまるや四角の形があるのではない。ところが、すべての人びとはこのことを忘れて、水の形にとらわれている。
善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。
縛られた見方を縁に返し、縛られることのない自己の本性にたち帰ると、身も心も、何ものにもさえぎられることのない、自由な境地が得られるであろう。」
皆さん、ご自分の「心の主となりましょう」そのためにも「心学」を修め、己を修めることは大切です。今夜は「にんげん学」大阪講座「老子を読む」Taoをご一緒に音読し、己の心を取り戻しましょう。今日も素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
6日、誠澄が満行の日にお供え下されたのですが、どうしてか昨日アップできませんでした。伊丹・寶樹庵さんと、愛媛・八幡浜の一生園さんのコラボ「ミカン大福」です。Yさんが親子でお手伝いに来てくださりお持ちいただきました。

私の故郷山形の高校の同級生Aさんが満行にと高級ラ・フランスをお供えくださいました。