聖なる行為

おはようごいざいます。

「八千枚護摩供」3日間のおまいりお手伝いありがとうございます。お陰様で今年もお仕えすることができました。法は素晴らしい、法に精気・精神・誠を尽くすことで多くの人の喜びのお手伝いができる、ありがたいの一言です。
炎が全てを焼き尽くす、自然な思い、願いです。煩悩、嫌なことを焼き尽くしてくれる、そして新たな願いを立て祈り成就できるという素直な心、「性(せい)が聖(せい)なる行為」です。この素直な「性(こころ)を大事にする皆さんとご一緒に祈ることができたことが聖なることと喜んでいます」。
聖は「全てを包み込んでいます」。だからこそ聖なのです。私たちは間違いを犯そうとして間違うのではありません、そこで性に素直に「聖なる行為を行い祈るのです」。この行為こそが大きな力を揺り動かすのです。護摩木に性・聖・精気を寄せる凄いパワーを知ったのも八千枚護摩を聖なる事として修したからです。
人間は貧しさから抜け出したいと、二元的な考えでは豊かになれません、貧しくとも性・聖なる行為ができてこそ豊かになれるのです。貧しさとは性が感じるのであり、貧富という二面性はあっても二元的にみてはいけません、聖なるものとして「豊かになる過程としてとらえれば聖なる行動となる」のです。小さい若木が大木になっていくように。
確かに断食・断水は辛いものです。聖なる法による辛さを毎年体感させていただくことで、現実に辛いことが生じたとき、「原点に戻る・法に立ち戻る。性は聖に戻れる」ことを再確認できた喜びにを味わいました。
多くの人が何か辛いことや、意のままにならないときに、やっても同じだと自暴自棄にならないためにも、法の素晴らしさ、偉大さを知らしめることが私の一つの使命でもあります、法を再確認できた喜びを八千枚護摩供で今年も実感しました。
行は同じでも、年令、経験等々で毎年違います。違うからこそ毎年法を遵守することが大切なのだということも再確認しました。
いつも書きますように、教えを信じて行動をしない人は誰一人いません、しかし様々な状況、風が逆風になったりと、この世は意のままにならないときもあるのです。そんな時、志を忘れず原点に戻る性、法・教え聖なる行動に戻ることが己を見失うことにならないのです。
行を終え、水を一口口に含みますと「甘露の味」です。この甘露の味を普段は忘れている、水を毎日口にしていますが、甘露の味がしない、何故だろうと、正直に己に問いかけました、そうです、満足しているのです。満足しているのが悪いのではなく、甘露の味を味わっているという感謝を忘れていることに涙しました。性に感謝できない愚か者です。
水をいただかなければ声も出ず、食物をいただかなければ力も出ません、しかし、法に沿えば、残された体力の中から、残された力で法の威力が発揮できることの有り難さも再確認できました。
力が法の力によってせき止められる、断食・断水そして八千枚という膨大な数の護摩木で限界まで力が止められる(蓄えられる)、しかし法力に従い行じていますと、水が堤防でせき止められてその力を蓄え、堤防が支えきれなくなったとき、怒濤の如く流れ出し全てを破壊する水の力の如く、法の正しい力によって私の力が蓄えられる喜び、法力が強まる喜びも再び味わうことができました。添え護摩祈願をお寄せいただきました皆様ありがとうございます。必ずや「皆様の頭の上に神々が宿ります」。安心してお過ごしください。
師匠のお声が終わったと同事に聞こえてきました「最誠、行じなければ体感できない事がいっぱいだろうというお声です。理屈では計り知れないことが体得できるだろう」と。
皆さんお随喜、お手伝いありがとうございます。一年のご信心ありがとうございます。感謝申しあげます。御身大切によいお年をお迎えください。
明晩は本年最後の「にんげん学」小倉講座「老子を読む」。道・法を味わいましょう。素読は心を豊かにします。何故かわかりません。魂が喜ぶ、性が喜ぶのでしょう。魂が喜びますと、欲には惹かれなくなり、「なる・ならないという不安」でお仕事するのではなく、安心の心でお仕事に向かう豊かな日々があります。
今日は性、自身の素直な心は何かな?という思いで過ごしてはいかがでしょうか?素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌