血肉とする

おはようございます。

今日は大寒、昨日より寒さは感じませんが、一番寒いとされる日です。お大事にお過ごしください。
毎日の読経はもちろん心学の書は「素読(そどく)」をします。いわゆる声に出して読む、人間修養の大事です。何故大事かといいますと、「素読は天命に通ずる先覚の書を、自分の口と耳とそして皮膚を同時に働かせて吸収するのです」。これを「読書百遍で繰り返し繰り返し続けることによって、自ずから自分の血となり肉となる」のです。
人間には自分の力ではどうしようもない、どうすることもできない事柄がいくつもあります。運が開ける、開けないというのもその一つ。しかし私は運が良かったと思っています。それは昨日書きましたが、「えっ、これは」という書に出会ったこと、それを生涯これまで学び続けていることで、少しは運の神様に手助けをいただけていると腹の底から思えるのです。
護摩を修す最大の理は「縁起を良くすることにあり」ます。護摩を修せば事実「縁起が良くなる現実をたくさん目の当たりにしています」だからこそ日々信じ修すのです。だからこそお参りの方も増えました。法に感謝そして敬う、読経に感謝そして敬うことです。
経典を読経する前に私たちは必ず「経本を両手に取って恭しくいただき敬い」ます。それから読誦するのです。敬えばこそ「運も開く」と教えられました。物言わぬ経本が「物を言うことになる」のです。
血肉となればこそ、それが時を経て外に滲(にじ)み出しますと風韻(ふういん)(優れた趣き)となり、そういう人格を「風格という」のではないでしょうか?。
何事の学びもそうですが、血肉にならなければいけません。「教え学びが血となり、肉となっていなければ、外に滲み出る風格などにはなり得ない」のです。己を修め人を治めるのが、心学の要道。教えが血肉になっていないようでは己を修めることなど到底できようもなく、人を治めるリーダーなどはなりえません、それどころか流される人生と化すのです。
苦楽極まったとき人間は右往左往、ウロウロし、本質が透けて見える。教えが血肉になっていない人は、どうしても、楽しさに溺れ、苦しさに負ける、これでは何のために学んだのかわかったものではない、学ぶとは己を高めること、豊にすることであって、評価されるためではないのです。
そんなことは使命とも言わず、ただの欲、使命感を持っていれば、楽しさに溺れることもなく、苦しさから逃げることもなく、自暴自棄になることもないのです。
明日は「にんげん学」東京初講座「論語を読む」です。本年もご一緒に声高らかに素読をしましょう。きっと素晴らしい一年となります。楽しみにまいります。今日は大寒ですが心暖かく過ごしましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
NPOこころのはな」で2月6日開催します。不登校・ひきこもり支援フォーラム。あなたのための居場所づくり、のため昨日宇治市長を表敬訪問してきました。お一人でも多くの方に聴講いただくためのご協力と行政の支援のお願いに行ってきました。
歴代の宇治市長のお写真。

山本正宇治市長と。