欠点は誰にでもある

おはようございます。

「にんげん学」小倉講座「老子を読む」ご出席の皆さんありがとうございます。皆さんとご一緒に学びました老子45章「ほんとうに完全なものは欠(か)けたところがあるかのようであって、そのはたらきはいつまでも衰(おとろ)えることがない。ほんとうに充満(じゆうまん)したものはからっぽであるかのようであって、そのはたらきはいつまでも尽(つ)きることがない。
 ほんとうに真っ直ぐなものはまるで曲(ま)がっているかのようである。ほんとうに巧妙(こうみよう)なものはまるでへたくそであるかのようである。ほんとうに雄弁(ゆうべん)なものはまるで口べたであるかのようである。
ばたばたと動きまわれば寒さをしのぎ、静かにじっとしておれば暑さをしのげる。動くものも静かなものもそれぞれに役にたつとはいうが、清らかで静かなものこそが世界の主となるのだ。」
いかがですお読みなって、どのように読みますか、私は「完璧で無くていい」「完璧で無いことに気づきなさい」と読みました。完璧で無いことを自覚したときから「永遠の生命が躍動する」と。できるようになりたいと考えるのは、ひとつだけのこと、一つを知ることは大事ですが、知ることにこだわれば、「他の知るという喜びに蓋をしてしまう」、そのような愚はおやめなさいと老子は諭します。
「知らない=欠点と受け止めるなとも教えます。」だから人から不知・無知を指摘されたとき「怒るのでは無く」「喜ぶことです」。
でなければ、人様から無知や不知を指摘されたとき、私たちの一番嫌な部分「人様の欠点探しをする」「あら探しをする」「人様のイヤがることをいう」ような「愚劣な人間性を自分で養う」からです。
私たちは、無限の可能性を秘めています。それは、「知らないことを多く持っていること」でもあるのです。「この事実を知れ」と老子は教えます。
「欠けたる」を欠けたるままに受け入れる時、その「欠けたる」ことの必要性が見えてくると教えます。老子が「無為」という時、それは何もしないことではなく、老子は逆説の詩人です。それは、「我をはさまない天の導き通りの最大の創造と活動の状態を言うのです」。「大成は欠(か)くるが若(ごと)く、其(そ)の用(よう)は弊(すた)れず」と導くのです。
知らないことの多い私たち、「知らないことを指摘され」そこで「プッツン」と切れてしまっては、そこで終わるのです。ではなく、「そこから新たな世界が展開されることを知れ」と老子は言うのです。今日はどのような「無知・不知」とであうのでしょうか?楽しいですね、又新たな自分との出会いです。今夜は「にんげん学」神戸講座「論語を読む」、午後6時半受付です。神戸地区の皆さん新たな喜びに出会いましょう。楽しくなければ学びではありません。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
私たちは「熊本・大分地震」の復興支援を応援します。ボランティアの皆さんご苦労様です。気をつけて作業お手伝いしてください。感謝いたします。
受講ありがとうございます。







Uさんお誕生日おめでとうございます。




今日小倉から神戸に移動するために小倉駅で新幹線の待合室に行きますと、部屋の前に「松本零士」氏の絵がありました。一層の復興支援をしましょう。

毎月撮っていますが徳山の工場群です。生きています、仕事をしています、私はこの無機質な工場群を見ますと意志を感じます。