無心に

おはようございます。

「にんげん学」小倉講座「老子を読む」ご出席の皆さんありがとうございます。昨夜は「無心に人に接することを学びました」難しい、しかし無心にならなければ弟子も何も育たない。こちらの気持ちに従わせるのが「育てることではない」のです。
指導する、導くことは「相手の長所を伸ばすこと」です。それを無視して教えたとしても、教えるどころか「壊してしまう」ことになりかねません。
逆に憧れてただ学ぼうとしたとしても、駄目だということでもある。ただの猿まねでは進化も何もせず、何も身につかず、自分を壊すだけになりかねない。憧れに生涯をかけて歩もうとする志気が大切です。一生かかってもやり通す覚悟。
「聖人は常に善く人を救う、故に人を棄つることなし。・・・故に善人は不善人の師、不善人は善人の資」という老子の言葉に愕然(がくぜん)とします。老子は、善人からも、不善人(自分で思っている、皆、誰もが思っている人を指しているのではない)からも「学べ」といっているのです。
愚かな経営者や、馬鹿な師(私のこと)がよく弟子や部下を嘆く言葉に、「いくら言っても直らない」と。これは自分の無能を語っている最悪な言葉だ。相手のことを何一つ知ろう、学ぼうともせずに、言葉を羅列しているだけ、相手の理解度や資質など一向におかまいなし、愛情も慈悲のかけらもない、これでは、茄子にニンジンになれといっている愚行でしかない、ということを改めて昨日学びました。老子49章を紹介します。
「「道」と一体となった聖人はいつでも自分の心というものをもたず、人民の心を自分の心としている。そこで、聖人はいう、
「人民のなかの善いものをわたしは善いとして待遇するが、善くないものでもわたしはまた善いとして待遇し、そうして善い人びとを集めている。人民のなかの誠実なものをわたしは誠実だとして信用するが、誠実でないものでもわたしはまた誠実だとして信用し、そうして誠実な人びとを集めている」
聖人が世界にたいするときは、その身をひかえて無心にふるまい、世界を治めるときは、知恵分別をさけて混沌(こんとん)としたありさまでいる。人民はみな耳目をこらしていろいろなことを見たり聞いたりしようとするが、聖人はすべてそれを閉ざして無知無欲にさせるのだ。」
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を思い出しました。
「雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べあらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい」
偉大な人だ。今夜は「にんげん学」神戸講座「論語を読む」会場でお会いしましょう。無心に学びましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
私たちは「熊本・大分地震」の復興支援を応援します。ボランティアの皆さんご苦労様です。気をつけて作業お手伝いしてください。感謝いたします。
☆小倉講座の会場です。Mさんお花を毎月感謝いたします。ご出席の皆さんありがとうございます。



懇親会です。皆さんお疲れ様でした。楽しかったですね、来月も楽しく過ごしましょう。