教え

おはようございます。

仏教聖典、パーリ、中部7-63、箭喩経(やゆきょう)に実践の道として「道を求めて」としてこのように説かれています。「この宇宙の組み立てはどういうものであるか、この宇宙は永遠のものであるか、やがてなくなるものであるか、この宇宙は限りなく広いものであるか、それとも限りがあるものであるか、社会の組み立てはどういうものであるか、この社会のどういう形が理想的なものであるか。これらの問題がはっきりきまらないうちは、道を修めることはできないというならば、だれも道を修め得ないうちに死がくるであろう。
例えば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。親戚や友人が集まり、急いで医者を呼び毒矢を抜いて、毒の手当をしようとする。
ところがそのとき、その人が、
「しばらく矢を抜くのを待て、だれがこの矢を射たのか、それを知りたい、男か、女か、どんな素性のものか、また弓は何であったか、大弓か小弓か、木の弓か竹の弓か、弦は何であったか、藤蔓か、筋か、矢は籐(とう)か葦(あし)か、羽根は何か、それらがすっかりわかるまで矢を抜くのは待て。」と言ったら、どうであろうか。
いうまでもなく、それらのことがわかってしまわないうちに、毒が全身に回って死んでしまうに違いない。この場合にまずしなければならないことは、まず矢を抜き、毒が全身に回らないように手当をすることである」。
この宇宙の組み立てがどうであろうと、この社会がどういう形のものが理想的あろうとなかろうと、身に迫ってくる火は避けなくてはならない。
宇宙が永遠であろうとなかろうと、限りがあろうとなかろうと、生と老と病と死、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、現に人の身の上におし迫っている。人はまず、この迫っているものを払いのけるために、道を修めなければならない。
仏の教えは、説かなければならないことを説き、説く必要のないことを説かない。すなわち、人に、知らなければならないことを知り、断たなければならないものを断ち、修めなければならないものを修め、さとらなければならないものをさとれと教えるのである。
だから、人はまず問題を選ばなければならない。自分にとって何が第一の問題であるか、何が自分にもっともおし迫っているものであるかを知って、自分の心をととのえることから始めなければならない」。
いかがですか?この教えを読まれて?。いつも書いていますが、どなたも失敗しよう、傷つこうなどと思って明日に向かって歩んでいる方はおられません。懸命に生きています。しかし問題はおきるのです。時に上の教えを確かにして、何が問題なのかを知り、今の問題を解決して進まなければ、毒が回ってしまうことを恐れなければならないのです。
自分の足で、考えで歩んでいるのが私たち。是々非々を確かにして、何かにつまずいたとき、自分の心を修めていなければ、た単に反発をして自暴自棄になってしまうようではよろしくありません。
今夜は「にんげん学」一宮講座「論語を読む」、明日は東京講座です。心身を修めるのが「心学」、各会場でお待ちしております。「自分の心は自分で学ぶしかないのです」。そして「自分の心を治めるのも自分であるのです」。その方法「こころの在り方、修め方が心学の中にあります」。
今日も皆様の一日が素敵な一日でありますことをお祈りいたします。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
NPOこころのはな「子ども食堂」ご来店ありがとうございます。来月は3月1日と日3月8日の二日です。必要とされています皆様にお知らせください。



子ども食堂に来ている姉妹にチョコをいただきました、ありがとうございます。