無功徳

おはようございます。

昨日は4月にも来寺しました、USAニューヨーク私立アベニュー中学校の生徒さん7名が今回は半日で研修に入山しました。
遠い国から日本文化を学ぶ、参考になったでしょうか?精一杯お話をさせていただきました。外国の人だから、子どもだからといって話を子ども向きにするということはありません。人として「どうあるべきか」は子どもも大人も一緒。
やはり、ポストにベスト。人生と言いますか、昼懸命に生きる人は「夜ぐっすりねむることができる」のと同様、昼懸命に働くと「日々充実する」のです。黙々とすることが私は大好き。
祈りも、掃除も何でもすべて「人のためになる」「人のため」。自分が、どう評価されるのかなどは「雑念でしかない」。雑念があるから「無心になれない」、無心になれないから「楽しくない」。損得勘定の人生で生きることほど楽しくない人生はないのです。
何故人生を楽しめないのかというと、名利(みようり)(名誉と利益。また、それを求めようとする気持ち)を求める我利です。
私は斯波最誠を生きるのであって、他の人が認めた価値観で生きていこうなどしていません。人間は「情の一字」。人から情けを受けたいと考えたときからまったく楽しめない人生となる。逆に「情を相手に行う」いわゆる「利他」で生きれば楽しくなる。これとても、道理を知ったからできることで、道理とは人を利するもの。ポストにベストとは、どのような境遇にあったとしてもベストを尽くすこと。
境遇云々でベストを尽くせないような人間性では、自分に合った境遇など永遠に巡り会えず、さまようばかり、寂しいばかりの人生を送るしかない。又何かをやったから人様が認めてくれるというような安易なことを考えているようでは、何一つ自分の人生に真剣に取り組んでいないと言うことでもある。無功徳という教えがある、功徳やご名利を求め願ってやるような薄っぺらな心では誰ひとり感動する人も出ては来ない。
これが利他だ、これをやることは良いことだなどと考えてやるようではいかんということ。そんな思いは功利、名利、我利。歩くときには歩き、掃除をするときはただ掃除、仕事をする時はひたすら仕事、これが陰徳、無功徳ということです。
教えの言葉は自利ではなく、利他にあり。自利を思うから悩み苦しみを生む。言志四録101条に「言(げん)を慎(つつし)む」として「言を慎む処(ところ)、即ち行いを慎む処なり」(言葉を慎むことは、行いをつつしむことで、言行一致ということになる)。
論語に「十目の視る所、十手の指す所、それ慎まんかな」と。私たちの言葉やふるまいは、多くの人が、指さして注意したところのものであるから、わが身を戒め、謙虚にふるまって、修養しなければならないという意味。
同じ論語に「先ず其の言を行い、而(しか)る後に之に従う」、つまり、言おうとすることをまず実行し、その上でものを言うことだ。ものを言うにはまず実行して、その後で言うこと。
自分を戒め慎む道理を知って、行いを慎まなければ、いかに言葉を飾っても信じられることなどはない。いかに知識があっても実行、成果を出さなければ無知と変わることがないのです。それ以上に自分を楽しめないという人生は考えものです。
皆さん楽しく実行しましょう。動けば楽しいのです。無我ほど楽しい生き様はない。考えていても何も楽しくありません。悶々とするだけです。しっかり行動する一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
☆USAニューヨーク、アベニュー中学校の生徒さん、ありがとうございます。又お遊びに学びにおいで下さい。法話、作務、お護摩、記念写真、そしてお別れです。皆さんお元気で。










学校のTシャツを記念にプレゼントしていただきました。ありがとうございます。




NPOこころのはな「ひきこもり女子会」を今日開催します。

☆7月2日は皆様の愛をお待ちしております。

☆散歩してご近所さん。