徳操を大切に

おはようございます。

「にんげん学」神戸講座・対人関係の指南書「論語を読む」ご出席の皆さんありがとうございます。人間何が自分を豊かな人生に導くかといいますと、やはり健康的に「己を省みられること」があげられます?。
誰でも失敗はあります、人と意見が違い思わず争いになってしまうこともあります。又楽しい友もできます。人と意見が合う合わないで世間を狭くしてしまうのも、せっかくのご縁を台無しにしてしまいます。それ以上に宜しくないのは、使命を果たせなくなることです。このことが人として悲しむべき事です。ご縁があったということは何か天意があったと、心学を修めて思います。
無理におつき合いしたりするのは、どこか功利的、打算があるから、無理なおつき合いとなるのです。無理に付き合うのは長く続きません。切磋琢磨も出来ません。
論語にはこのような無理な付き合いをせずに済む考え、思考法、人としての在り方が説かれています。万世の指南書、ありとあらゆる人との出会いのケース対人関係の在り方、孔子がいろいろな立場の人や弟子たちとの対話が収められている最高のお手本の書です。
有名な論語の冒頭、学而(がくじ)第一「子曰く、学びて時に之(これ)を習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからず乎(や)。朋有(ともあ)り遠方より来たる、亦た楽しからず乎。人知らずして慍(いか)らず。亦た君子ならず乎。」
意は「孔子言う、学問をして、その学んだところを機会ある毎(ごと)に復習し練習して行くと、学んだところがおのずから真の知識として我が身に体得されて来る。これはまたなんと愉快(ゆかい)なことではなかろうか。このようにして修養を積むと自然、共鳴者、又は同志の者が出来て、遠い所から慕(した)い訪ねて来るようになるであろう。これはまたなんと楽しいことではなかろうか。又自己の学習により友との切磋(せっさ)によって磨かれる学問は、終(しま)いには真の徳操(とくそう)となって、分(ぶん)に安んじ命(めい)に立つ所まで進まなければならない。この境地に至(いた)れば、すでに世の毀誉褒貶(きよほうへん)は問うところではない。たとい世人(せじん)が自分の学徳を認めてくれなくとも、これを怨(うら)まず尤(とが)めず、平然(へいぜん)として世に処(しょ)することが出来るであろう。この点まで進み得た人であれば、これこそ真の修養の出来た君子人(くんしじん)というべきではなかろうか。」
如何です、孔子は勉強したからといって人様が認めてくれるとは限らないと明言しています。ときに対応の仕方です。認めてくれないからと自棄になって争っては真の知識ではないといっても過言ではありません。徳操、自分を確かにコントロールすることが真の徳操であります、これができないようでは知識人とは言えない。
これは、学習上の三段階を述(の)べています。その中に又一貫(いっかん)した条理が通っています。第一節に述べる自己(の学習が出来上がれば、必ず志を同じくする同志・仲間は来たり集まるものと信じていること。そこに第二節の意義があります。
しかし人生は必ずしも順路(じゅんろ)のみとは限らず逆境もあり、いかに自己の修養が出来ていても、世の中の人がこれを認めず、或(ある)いは誤解し、甚(はなは)だしきは曲解(きよっかい)する場合もあります。そのような場合に対してなお且(か)つ自己の徳操(能力を生かすために決して対応を諦めず解決法を探し求める)を信じ、分(ぶん)に安(やす)んじ命(めい)に立つところがなければならないのです。これが第三節の意義です。これを孔子は「人生に於いて三つの心構えの大事」であると説くのです。
先日世間を騒がせた高学歴の代議士が引き起こした騒動などはまったく知識が徳操となっていない無知の証です。人の振り見て我が振り直せを知ってはいても、我が振りを直せる徳操となるように学ぶこと、時習が大事です、人生は未踏だからです。今日もしっかりと学ぶ一日としましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。
☆ご出席の皆さんありがとうございます。昨日は大いに話しに熱が入りました。来月は7月18日(火)です。









〆は卵かけご飯、最高です。皆さんのおかげで美味しいお料理をいただけます、ありがとうございます。来月を楽しみにお大事にお過ごしください。


☆7月2日皆様の愛をお待ちしております。