小僧生活

おはようございます。

現在、もう少しで帰るのですが寺の家族が先日から二人増え、ふとお山時代のことを思い出しました。私は型にはまった修行という経験を余り持っていません。比叡山時代は小僧(使いっ走り、一般の作務、雑務を主に行う)だったからです。ですから比叡山で修行したなどと大きな声で言えないのが事実。
つなぎ、むすびということを先日書きました、縁起。余り難しいことを考えて比叡山に入ったわけではなくご縁、とはいっても相当の覚悟はしました。未知の世界に飛び込むわけですから、訳のわからない不安はありました。しかし希望の方が大きかった。
好むと好まざるとに関わらず、この世は競争社会。私はこの競争社会、相対社会、対立社会という言葉に捕まり二進も三進も行かず、ついて行けずに比叡山に。この世に敗北したとは考えてはいない、私のいる場所では無いと感じた。
「一隅を照らす。ポストにベスト」という比叡山伝教大師様の日常の徳目の教えに感動、お大師様の教えに心をつかまれ。自分勝手に「一隅を照らす」を旗印にしている比叡山なら、私を置いてくれるポストくらいはあるだろうと、脳天気に考え登叡。
ポストをいただき、そこで小僧生活まるまる十年、足かけ11年過ごす。競争世界に間に合わない私、ひたすら、作務作務作務、言われたことを黙々と行うことに徹底するという覚悟での生活。
私は「水神信奉者」。水の徳、水の如くにありたいと願う。
人と比べれば何一つ上手にできない、しかし水のように、どんな器の中にでも収まる、下へ下へと流れ流されても、ベストを尽くす水、そんな風に過ごした比叡山時代。今でも心境は変わりません。
水の教えに憧れた理由は沢山あります。水は高いところから低いところへと流れ、その流れ着く先が谷底のじめじめとした、葉っぱやら虫やらが浮いている汚い場所であったとしても、じっとそこに留まって力を発揮、最後には海にたどり着く、そして天空へ、そして大地へと循環、永遠の命。
人間社会にたとえるなら、そういう低いところは、情報が一番集まる場所。言い換えれば、誰に対しても腰が低く、「自分が、自分が」と言わない謙虚な人のところに、情報が集まるわけです。高みから偉そうにしている人には、誰もいい情報を届けたいとは思いません、小僧をやって一番下にいて、多くの高僧やお客様のお給仕をさせていただきいろいろな話を伺ったことが研修や、今日の役に立っています。
観音経に「福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)」という一節があります。福の無量に聚(あつ)まるのは一番低い海。愚鈍な私のような者でも海のような大きな心で観音様は導いてくださるという意味。
「雨だれ石を穿(うが)つ」と言われる、一滴の水は非力だけれど、ポトリポトリと繰り返し同じところに落ちると、長い歳月を経て石に穴をあけるほどの力になる。競争せず、繰り返すことならと勇気を得る。本当に強いのは、硬い強い石ではなく水なんだよ、ということに妙に納得感動。
もう一つは、水には形がないから、どこにでも入っていける、水はどんな形の器に入ってもいける。これは、自分の形を相手に押しつけないから、なせる業。私もこれだと「自信や得意なものなど何一つ無い、型や形などとうてい持っていない」だから「水のように生きたい」。
水の心は、人づき合いの秘訣だと感じる、「聞き上手になって、相手に合わせる」ことの重要性。
水の精神とはつまり、他者の持つ知識や技術を有効活用すること。人との交流を通して、さまざまな話をお聞きし、「今日はありがとうございました。大変勉強になりました」と謙虚にふるまい。そうすることで、いろんな人が情報を提供してくださり、自分自身の実力が向上できるのです。このように考えたのです。
豊富な情報を仕事の新しいアイデアの源泉とすることもできるのだと教えてくれたのです。小僧をしてきて一番下にいていろいろな方のお話をお伺いでき善かったとしみじみと今更ながら多くの方々に感謝しています。
なんだかんだと、ゴジャゴジャ書きましたが、上の文章を一言で言えば、「人生面白いのです、いろんな人の話を聞くことは、面白いから続けてきた」。私は私であるために水のようにありたい、流れ流れて海にたどり着く前に心華寺に愛宕寺に各地にポストにベスト。随縁、縁を大事に今日も無心にお過ごし下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
☆昨夕の風景
蝉の幼虫が久しぶりに見ました。人間も昆虫も何度も何度も脱皮をしながら成長するのです。