琴線に触れる

おはようございます。

 信はどのような人生を生きるにも大切なものです。信がなければ迷いの人生となることは疑いをいれません。信念がなければ人に惑わされる人生を送ることにもなります。
 人生を「信じる信じないの二信で考えている人がおります」。聖典や心学の書、専門書を読んでいるとき「琴線に触れる」ときがあります。いわゆる理屈抜きの感動です。琴線に触れるなどと書きますと何か難しいように考えますが、信じる事ほど簡単なものはないと私は考えています。
 感動したことを私は信じています。己れ自身、私自身の感性に従って生きているのです。だからこそ師に学び、従い、出来ることを楽しんだのです。学校に行き、良い点数を取らなければ人として役立つ事が出来ないなどと言う道理は道理ではなく、私利私欲、我欲の狭い世界の人が言っていることです。
 琴線に触れるということを新渡戸稲造(にとべいなぞう)先生はこのように、「自警録」に表現しています。「片言でいう小児の言葉が,胸中の琴線に触れて,涙の源泉を突くことがある。」(「自警録」昭和4年
 子供のたどたどしい言葉であっても、人の胸の奥の心情を揺り動かし、感動の涙を誘うことがある、ということを「琴線に触れる」を使って表現しています。この言葉を読んだとき大きな感動を受け、そして涙がこぼれました。
 新渡戸稲造(にとべいなぞう)先生は「武士道」を書いたことで高名ですが、私は先生の「自警録」が好きです。
 その序に「とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚遠大にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話の料か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼(おそれ)がある。もちろん道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人の意識の中に浸み込ませるところにあると思う。古の賢人も道はここにありと教えた。なお賢人の曰うに、「言近くして旨遠きものは善言なり。守ること約にして施すこと博きものは善道なり。君子の言は帯より下らずして道存す」と。
 序を読みますと、「道」すなわち道徳は「その性高くしてその用低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く」、学問の有無、学歴の有無に関わらず守り得るものだと言っておられるのです。
 まったく、まったく、この通りです、だからこそ私も日々親しみ学び身近な所へ活かし暮らしています。道徳は言葉ではなく、人を利する、利他です、人を思いやる慈悲、仁愛は何も難しい事ではないのです。今日も出来ることで和顔愛語、精一杯ポストにベストを楽しく尽くしましょう。
 
世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。 合掌
※運命相談。辯財天秘法姓名判断。家相、地相の相談等々ご相談ください。0774-44-5380。メールbonsan01@wao.or.jp。したいけど、できないから相談することの勇気が未来の幸運の扉を開けます、ノックをしましょう。尋ねることを知恵、自明の人(自分に明るい人)といいます。