願文

おはようごいざいます。

愛宕寺、初地蔵・初権現「初月例・幸福開運護摩祈願祭」おまいりお手伝いありがとうございます。乙未年に相応しい皆様の素直な行動に権現様はもとより本年の歳徳神様もご守護くださることでありましょう。一年和合の年と考え過ごしましょう。
命の大切さ、和合の大切さ、法の大切さ、学びの大切さを強く意識したのは19才の折、比叡山天台宗開祖・伝教大師最澄上人様が書き残された「願文(がんもん。延暦5年、786年頃)」という短い文章、声明文に出会ってのことでした。願文はお大師様が奈良で修行中世上の喧噪を避け、新たな場所でお釈迦様の教えを確かにしたいとの願いからでした。積極的逃避、その場からただ逃げ出したのではなく、がっちりと固められた社会構造の中ではとうてい理想の実現は無理と考え、理想に燃え時の都、奈良で僧侶の世界で出世コースを一歩踏み出したにもかかわらずそれを棄て比叡山に入りこの願文を表したのです。大師19才の青雲の志です。
同じ19才の私は興奮して読んだことを読むたびに思いだします。少々長いですが全文を紹介します。世界中の皆さんにこのような思いを持ち平和を実現してほしいと願うからです。
「悠々(ゆうゆう。思いが長々と続き、心安まることがない)たる三界(この世)は、もっぱら苦にして安きことなく、擾擾(じようじよう。ごたごたと煩わしい)たる四生(生きとし生けるもの)は、ただ患(うれ)いにして楽しからず。牟尼(むに)の日は久しく隠れて(仏滅後、年既に久しい)、慈尊(じそん。弥勒菩薩)の月いまだ照らさず。三災(火水風の大三災と戦争・疾病)の危うきに近づき、五濁(ごじよく)の深きに沈む(末世の衆生の心身に起きる五つのけがれ。劫濁、見濁、命濁、煩悩濁、衆生濁)。しかのみならず、風命(ふうみよう)は保ちがたく露体消(ろたいき)えやすし。(無常な人命・体)。草堂楽(そうどうたの)しみなしといえども、しかも老少白骨を散じ曝(さら)し、土室闇(どしつくら)く迮(せま)しといえども(墓)、しかも貴賤は魂魄(こんぱく)を争い宿す。かれを瞻(み)、おのれを省みるに、この理必定(ことわりひつじよう)せり。仙丸(せんがん。仙人になるための丸薬)いまだ服せざれば、遊魂留(ゆうこんとど)めがたく(散り散りになる心)、命通(みようつう。過去を知る通力)いまだ得ざれば、死辰何(ししんいつ)とか定めん(死期)。生けるとき善を作(な)さずんば、死する日獄(ひごく)の薪(たきぎ)とならん。(地獄の薪)。得がたくして移りやすきはこれ善心なり。ここをもって法皇牟尼(ほうおうむに)は、大海の針(大海に落とした針を探す)、妙高の線(いと)を仮りて(須弥山上から糸を下ろして麓の針の穴に通す)、人身の得がたきを喩況(ゆきよう)し、古賢禹王(こけんうおう。中国古代の夏の聖王)は一寸の陰(とき)、半寸の暇を惜しみて、一生の空しく過ぐるを嘆勧(たんがん)せり。因なくして果を得る、この処(ことわり)あることなく、善なくして苦を免(まぬが)る、この処(ことわり)あることなし。伏して己が行迹(ぎようしやく。足跡)を尋ね思うに、無戒にして竊(ひそ)かに四事(しじ。衣服、飲食、臥具、湯薬の給付)の労りを受け、愚癡(ぐち)にしてまた四生の怨(あだ)となる。この故に未曾有因縁経(みぞういんねんぎよう)に云わく、施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入ると。提韋女人(だいいによにん。印度ハシノク王の皇后)の四事の供(く)は末利夫人(まりぶにん。慈悲心が深く人々を救うことを喜びとし、次の世に高貴(末利夫人)に生まれた未亡人)の福と表れ、貪著利養(とんじゃくりよう)の五衆の果は石女擔轝(しやくによたんよ。輿(こし)をかつぐ女)の罪と顕(あらわ)る。明らかなるかな善悪の因果、誰か有慙(うざん)の人にしてこの典(のり)を信ぜざらん。しかればすなわち、苦の因を知りて苦の果を畏れざるを、釈尊は闡提(せんだい。未来に可能性のない人間)と遮(しゃ)したまい、人身を得て徒に善業を作(な)さざるを聖教(しようぎょう)には空手(くうしゅ)と責めたまう(心地観経等に、人手なければ宝の山に入るも所得なきが如く、信の手なきものは三宝に逢うも所得なし)。ここにおいて愚が中の極愚(ごくぐ)、狂が中の極狂(ごくきょう)、塵禿(じんとく)の有情(頭だけは剃っているが俗塵に汚れている僧侶)、低下(ていげ)の㝡澄、上は諸仏に違(たが)い、中は皇法(おうぼう)に背き、下は孝礼を欠く、謹みて迷狂(めいきよう)の心に随い三二(五つの)の願を発す。無所得(どんなものにも執着しない)をもって方便とし、無上第一義(一番優れた悟り)のために金剛不壊不退(こんごうふえふたい)の心願を発す。(ダイヤモンドのように固い決心)。
我れいまだ六根相似(ろっこんそうじ)の位(眼耳鼻舌身意の六器官が清浄になって仏さまのそれと似た能力を持つ悟りの境地)を得ざるよりこのかた出仮(化他行に出て、人々を教え導くこと)せじ。其の一
いまだ理を照らす心を得ざるより(道理が解る心)このかた才芸(仏法以外の学芸)あらじ。其の二
いまだ浄戒を具足することを得ざるよりこのかた檀主の法会に預からじ。其の三
いまだ般若の心(真理を体得)を得ざるよりこのかた世間の人事の縁務(かかわりをもった俗世間のつとめ)に着かじ、相似の位を除く。其の四
三際の中間(過去・現在・未来の中間、即ち現在)に修する所の功徳は独り己が身に受けず、あまねく有識に回施して、悉く皆無上菩提を得せしめん。其の五
伏して願わくは、解脱の味独(あじひと)り飲まず(功徳を他にわかつ)、安楽の果独り証せず。法界(法の現れと見るこの世界)の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味(悟りの喜び)を服せん。もしこの願力によりて六根相似の位に至り、もし五神通(神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通)を得んときは、かならず自度(じど。自分だけが悟る。菩薩は自度より他度を先にする)を取らず、正位(仏の位)を証せず、一切に著(ぢゃく)せざらん。願わくは、かならず今生無作無縁(こんじょうむさむえん。何のために、誰のためにという限られた目的でなく)の四弘誓願(しぐせいがん)に引導せられて、あまねく法界を旋(めぐ)り、あまねく六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くして恒に仏事を作(な)さん。」。
少々長くなりましたが、人間は病気や寿命で亡くなることは辛抱できたとしても、争いで亡くなることほど悲しく愚かなことはないのです。伝教大師最澄上人様は19才の折にこの願文を書かれ、願文に書かれた精神を生涯としようと発心され、その通りの生涯を送られました。
争いが如何に無益なものか、争いは分かち合う精神の欠落、知らないからだと、先ず自ら学び、そして体得、体得したなら分かち合う世の中を作りたい、得たものは分かち合っていきたいと、その理想に燃えたのです。深い自己反省と未来への洞察、それから一千年を経ても争いは無くなりません。
私たち一人一人が理想に燃えなければいけません。私も19才の時、すべてを理解できないまでも、感動し僧の世界に入ったのです。未来際を尽くして理想に向かいたいとここ数日報道を騒がせている事件を見て思っています。この年で未熟といってしまいますとお笑いぐさですが、未熟なればこそ理想に向かって歩みたい。願文の教えを鑑(かがみ)として私は今日まで歩んで来ましたが、鑑を見るたびに恥ずかしさを覚えます。しかし鑑があるから、目標があるからこそ修正しながら今日まで歩んで来られたと感謝もしております。
我欲を満たし己の繁栄のみを願うことが争いを生み、乱れた社会を作るのです。己の繁栄を願ったときから滅亡の道を歩み出す愚を知りましょう。地域、社会の安泰、繁栄を願わない我欲の人間の行く末は破滅の道しか待っていません。自然の道理がそれを許さないのです。
人が生きるのに食料は大事です。それ以上に大切なのは日々生きる精神の糧です。お大師様が糧と為されたのが「分かち合い。己を忘れて他を利する、利他、菩薩道」の精神。素晴らしい教えという糧を知り保つことは力も道具も大きさも、持ち運ぶことも必要なく、人をも選びません自覚のみです。そして気持ちを通じ合える素晴らしいものです。和合を大切にしましょう。
明晩は「にんげん学」小倉初講座、明後日は神戸初講座です。楽しみにしております。素晴らしい休日をお過ごしください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌 
Oさん今年初のお供養です。味噌仕立ての鹿児島黒豚の豚しゃぶ、アワビの酒蒸し、数の子、すべて今年も絶品ごちそうさまでした。