やはり

おはようございます。

愛宕寺「初・月例幸福開運護摩祈願祭」ご参拝ありがとうございます。今年初めての祈願祭にご一緒できましたこととても幸せでした、感謝致します。
昨日書いていますが、自分の思い通りにならないと感じるのは「欲であり、贅沢」なことであり、おまいりいただいている方に失礼、非礼なことです。
その思いを今年も確かにして皆様方のご安泰を専心に祈る一年としてまいります。祈りの気は暖気。冷気は物を育てませんが、祈りの気、人を思いやる暖気は何物でも育み成就させます。皆さんも篤い信心の一年をお過ごしください。
「やはり祈りは素晴らしい」。
心は「ころころするもの」だから「こころ」と言ったそうです。また沢庵禅師が「心こそ こころ惑わす心なれ こころにぞ 心 こころゆるすな」と言った具合に、己の心がころころと落ち着かないのは致し方がないのかもしれません。
が、そうは言いましても己の心で己が迷っているようではこれまた笑い話にもなりませんので、やはり心を確かにしなければいけないことは間違いのないところです。その心を確かにするために私は「祈る」のです。祈りは慈悲の世界を説いています。いわゆる「人様をサポート、ケアー、カバー」する心です。心が迷い、騒ぎ、ころころするのは「我欲」から起きるのではないでしょうか。己の「思いが意のままにならない」からです。
祈りの言葉は「安心の言葉」が書いております。どのような教えの言葉でしょう「共に」ということです。だから日々楽しく嬉しい気持ちでお唱えできるのです。
我欲を増長させるような、己一人が出世するようなサクセスストーリー的な教え、言葉はありませんゼロです。ですから失敗とか成功云々、また手柄とか成績を上げるなどという二元的な世界とはまったく次元が違い、苦の種にはならないのです。
維摩経の中に維摩居士(ゆいまこじ)の話があります。居士が病になり、周りの人がなんで病んだのですかと尋ねますと「衆生病む故に我病む」とおっしゃったそうです。世の中の人が病み苦しむ様を見て病になったのだと、祈りを為す者は己のために病むことはありませんが、人々のために心を痛めることはあるのです。そしてその解決に力をつくすのです。
祈りの言葉は「共に」が説かれてあり、「分かち合う」ことを説いています。分かち合い共に歩む人生ほど楽しく意義があるものはないのではないでしょうか。私は日々様々な世界の人と「分かち合い」喜び楽しみを多くしています。それは祈りがあるからだと思っています。祈りは、いいものです。
苦があれば半減し、喜びがあれば倍増するのが祈りです、分かち合うことです、共にすることです。このことは何も相手が私の存在を知る知らないという次元のものではないのです。だからこそ心が自由であるのです。そして相手を選ばず、どこででも、どのような場合でも行動できるのです。
明晩は「にんげん学」小倉初講座、九州地区の皆さん、初講座お会いできますことを楽しみにしています。学びを分かち合い、自分が行動することで昨日Tさんがコメント下されていますが、出会った方々のその後の人生を素晴らしいものとしてくださればと考えています。今日も素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は愛宕寺法要の後有志の皆さんに仏器磨きのお手伝いをいただきました。お掃除もいただきありがとうございます。このことも共にして分かち合う世界です。本年もよろしくご奉仕ください。一枚はOさんが差し入れて下された般若湯のごちそう、鯛の酒蒸し、鯛の粕漬け、からすみです、Oさんごちそうさまでした。