隠せない

おはようございます。

すごいですね、高速道路の混雑、気をつけて運転ください、そして沢山楽しんでください。
昨日は一年に一度故郷の小学校の同級生であるW君がお参りに来てくれました。数年前私の本を読んでくださってから50年ぶりのご縁の復活でした。
人様からは道理を確かなものとして現実に目の当たりに示してもらえるという事がありがたいことです。
日々私たちは人様と接し、道理の因果を現実にしております。人を見ることの大事、見られている大事を確かにしなければなりません。
「隠すことは出来ない」。
論語「為政(いせい)第二」第十条に、
「子曰く、其の以(な)す所を視(み)、其の由る所を観(み)、其の安んずる所を察すれば、人焉(いづく)んぞ廋(かく)さんや、人焉んぞ廋さんや。」。
意は「孔子言う、人を観察するには三段の方法がある。まず第一に、その人のなすところ、すなわち実際の行動を視る。第二に、その行動の由って起こった原因動機を観る。第三に、その人が自分の行った行動に対してどの程度に心安んじておるかという点を察する。この三段の方法を以て人を観察すれば、人の全貌はおのずから現れて来るもので、いかにかくそうとしても、かくしきれるものではない。」というのです。
ここに慈善の行いをした人があるとします。そのなすところを見れば、慈善家であると判断できます。しかし、その慈善行為をなすに至った動機が、真の慈善心から起こっておるか、或いは世間の名声を求めようとする心から起こったか、そこに動機の相違があるのです。
因るところを観る必要性がそこにあるのです。又かりに正しい動機から事を行ったとしても、その場合、善をなすことを心から楽しんで安んじてなしておるのか、或いは又、自分の欲心を押さえて努力してこれをなしているのか、そこに又道徳上の深浅を見ることが出来る。以上は善行について例を取ったのですが、悪行についても同様であります。
一つの過ちを犯すとしても、その動機によって罪悪の深浅もあろうし、又過ちを犯した後において心に悔いを残しているか、或いは平気な顔をして平然としているか、その心の安んずる所に相違があるのです。
これらを総合して人を観察すれば、人はどうして己をかくし得ようというものです。
物事や人を見る場合には、視は直接に物をみること、最も軽く、観はひろく他の方面にも心を配ってみることで、やや重く、察は更に物事の軽重大小をも見抜くことで、最も重い見方です。これらの三つの方法によってしっかりと人を見ることによって確かな人間関係を築くことが出来ていくのです。
言ったことを行う人か、行ったことを言う人なのかでも確かに人を見抜けるようにもなります。
しかし己が欲心を以て見ればどんな正しい方法を知っていたとしても正しくは見ることは出来ないことを最も知らなければなりません。
なぜならば人格はかくしようがないのです。
今日は第一日曜日、心華寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」です、午前十時から行います是非お参りください、そして素直な心となりましょう。素直な心に勝る繁栄の道はないのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌