慎み深くなる

おはようございます。

3月も半分を過ぎます。やはり「去る」ですかね?、時は流れるからこそ大切、過ぎるからこそ「やり直しも出来る、チャンスが再来」。今週も素晴らしい一週間でありますように。
昨日の「水子供養祭法要」おまいりいただきありがとうございます。月一度の再会、水子様も喜んでいます。来月も是非お運び下さい。
今週も私は東西に行き来する予定、どこかでお会いしましたらお声をかけてください、世間を見ているためよそ見、すれ違っても分からないときがあり、和尚とすれ違ったのに、知らんふりをされたなどと誤解を招くときが時おり、よろしくお声かけを。
「修養は人を慎み深くする」と孔子は言います。どのようなことでも良いのですが一つのことを生涯続けている方を拝見しますと「慎み深い」ことを感じます。いわゆる謙虚。「まだまだ未熟だと感じている」のです。
論語、憲問(けんもん)第14、45条に「子路(しろ)、君子を問う。子曰わく、己を脩(おさ)めて以て敬す。曰わく、斯(か)くの如くなるのみか。曰わく、己を脩(おさ)めて以て人を安んず。曰わく、斯(か)くの如くなるのみか。曰わく、己を脩(おさ)めて以て百姓(ひゃくせい)を安んず。己を脩(おさ)めて以て百姓を安んずるは、堯舜(ぎょうしゅん)も其れ猶諸(なおこれ)を病(や)めり。」。
昨日のブログにも登場させました孔子の弟子、子路の話し。「弟子の子路が「君子とはどういう人でしょうか?」と尋ねたとき、孔子は「自分の修養に努め、自分を敬うことのできる人だ」と。」
論語の中には、このような問いかけは沢山出てきます。先日の富士のお山も、見る場所、お天気、その日その日で印象が変わるのと同じです。ですから孔子自身も対機説法で「君子の在り方を」説いたのです。子路には「自分の修養に努める」ことの重要性を説きました。いわゆる「修身」。
自分の「行いを正し、身を修め整えること」です。それによって「人格を形成することが大切だと言っているのです。」。
「己を脩(おさ)めて以て敬す」の「敬」とは、「戒める」「身を引き締める」「慎む」という意味が含まれています。つまり修養を積むと「人は慎み深くなる」ということです。
「自分を尊重するからこそ、「まだまだだな」と思って、さらに修養に努める」そういう慎み深さが出てくるのが「本当の修養なのです」。
逆に言いますと、「修養に努めませんと、自分を敬うことができない、故に自分を粗末に扱ってしまう人間を養う」のです。そして「自分を軽々しく扱い、ふるまうようになる」。このように自分を粗末に扱っている人を多く見るのが傷ましくもあります。この条は「自分を粗末にしてはいけないぞ、という孔子の警告でもあるのです」。
この後に子路は、二度にわたって「それだけでいいのでしょうか」と問うています。「君子(リーダー)は人を安心させる務めがある」のです。子路は私に似たところがあり、とても親近感を覚えます。子路は単純で、孔子の言葉を「深読みできない」のです。だから、わからないと素直に質問するのです。私の代弁者のようです。しかし流石(さすが)孔子は「教えて倦(う)まず」の人。どんな愚鈍な弟子でも教えることを諦めない。淡々としかし情熱深く教えるのです。
「己を脩(おさ)めて以て人を安んず」と。「自分の修養に努めれば、周囲の多くの人を安心させることができるのだ」と。人格の高い、そして常に修養し慎み深い人には「こういう人が上司で良かった」というように感じるものですし、周囲に良い影響をもたらすのです。
そして「己を脩(おさ)めて以て百姓(ひゃくせい)を安んずるは、堯舜(ぎょうしゅん)も其れ猶諸(なおこれ)を病(や)めり。」と。「そういう人がリーダーになれば、世の中の人々みんなが安心する。あの素晴らしい堯・舜でさえ、自分の修養に努めて、世の中の人々みんなを安心させることには大変な苦労をしたんだ」と諭(さと)したのです。
百姓とは「百の姓名、広く大衆を意味する言葉」です。修養・修身を生涯のものとして、周りの人に良い影響をおよぼせば、それがやがて「民全般に行き渡ることを説き教えたのです」。修養を積み人様に対して慎み深くして「回りを安心させることができるようになれれば」と日々思うのです。
今夜は「にんげん学」京都講座「老子を読む」、「争わないパワーが自然のパワーだ」という話しです。会場でお待ちしています。
今朝は強い雨です。寒くなりそうですのでお気をつけて新しい週の一日をスタート下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
木蓮のつぼみが大きくなってきました。