身を慎む

おはようございます。

寺は多勢の方のお陰で運営できています。寺ばかりではなく、社会全体もお陰の力に支えられているのではないでしょうか。多勢の方が率先してお手伝い下さいます。それは皆様の心が教えに素直だからでもあり、その教えは仁であり、慈悲です。私たちは強制されてこのように在るのではなく、「教えを心としている」からできるのです。自らの生き様、在り方としているのです。
だからこそお互いがお互いのために自然に支え合うことが出来ていくのです。結果その延長線上に社会があり、社会生活の中でも仁、慈悲の行動が自然に出来ていくのです。だからこそ信頼を得、自然に親しむ人が増え、無くてはならない存在と成るのも不思議ではありません。
「身を慎む」。
教えを吾が心としている人の多くは「己を知ってもいます」。己を知っているというのは「何が出来て何が出来ないのかを確かにしている」ということです。ですから、出来ることを率先し、その円周を大きくしているのです。さあ見てくれ、というような評価や信頼を勝ち得ようなどという自惚れ的な思いではなく、素直な気持ちです。
素直な気持ちというのは、どこでも学ぶ気持ちを旺盛にします。人が見ていようがいまいが、慎み深く知識を体現できるように、あらゆる場面で修練するのです。知るを知る、知らずを知らずと確かにしていますから、知らない事に出会って、不足を思うのではなく、新たな学びの課題を得たと喜ぶのです。
人間は自分で課題を作り、自ら学ぶ機会を作ることも当然ですが、人が欲すること、ニーズに応えるという意欲も持たなければいけません、その意欲を高めるのが、知らないことに出会ったときです。
若い時の修行の形態は独りで行いますが、それはどのような状況に置かれたとしても「ぶれない己と出会うため」です。見られていても、いなくとも、同じ心境となる事が出来るためです。皆さんが毎日、毎週、毎月のおまいりいただくことが私たちの修行と同じ事を行っていただいているのです。
真実の修行、修練は人様の中、家庭や職場、地域、仕事相手などあらゆる社会生活の中で、自らの欠点を知り気づき修正できてこそであり、人様の言動の良し悪しを見極めることでも修練が出来るのです。
ひとりになって、自分はいかなる人間かと考えたり、己の行動を反省したりするのは、まったく意味がありません。自分の行動を肯定し、自惚れてしまうか、逆に落ち込んで自分を卑下してしまうという状態に陥ってしまうからです。
信のある人は現実の生活の中で修正し、修正力としていくのです。それが教えを心としている者の人生です。
身を慎んで、教えを心とすれば、惑わない人生とします。「自分以外はみな師」。今日もいろいろな場面、状況の中で慎んで学びましょう。良い一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。      合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。