一人の

おはようごいざいます。

今朝もお月様、お星様がきらきらと輝いています。素直に手を合わせ感謝しました。何とも言えないすがすがしさです。
「一知己(いちちき)」という言葉があります。誰が言ったのか忘れました。「同じ心持で世を視る思い」を持つ友を得たら何もいらないという意味です。このような友を何人持てることができるでしょうか?、まあ、このような友はそう何人ももてないのでしょうが?。それにはこちらが人間性に磨きをかけなければいけないことは当然のことです。
この言葉は「人生、一知己を得ば、以て恨(うらみ)なかるべし」として書かれていましたので、誰かと衝突し、失跡させられたか、敗北したからかもしれません。誰かを恨んでいた人間が素晴らしい友を得て、恨みを忘れたということでしょう。そんな邂逅(かいこう)ができる友を持ちたい、そして人間でありたい。
友を大事にするとは、己を大事にすることです。己を大事にするとは、「どうのような人生を歩むか」です。どう歩むかは利害ではありません、利害はその道中において時々の経過において現れるものだからです。良いことが無ければ歩めないことが既に打算です。
利害で出会うのではなければ、人間そのものを観ることが可能となります。自分の仕事の世界で相手を見てしまえばいくら人間的魅力があったとしても気づけませんし、気づかないでしょう。そんな気持ちで人様と出会ったとしても、「一知己」となり得る友とは出会うべくもありません。どんな人と出会ったとしても「魂のバイブレーションを感じないでしょう」。
一知己となり得る友と出会えるような人間は「感動の人」でもあります。目の前の人、物、自然に感動できる人が「感動できる人に出会う」のです。感動とは「利害では絶対にあり得ない」のです。自分の打算では目の前の美しさ、人の素晴らしさには気づけないのです。いわゆる価値観が固定的、固まっているからです。その人そのものを観ていない、観られないのです。
「心学」を学んでいることの素晴らしさは、自分を勘定に入れずに「人様を観ることができるようになる」ことです。そして必ず「目の前の人の長所を観ることができるようになる」ことです。
一知己を得るといっても、何も相手が感じてくれることを願っているのではなく、こちらが素直に一方的に感動し、一知己と感じることです。そうすることで「共振」する人が次第に増えてくることにつながり、一知己を得るようになれるのです。
魏(ぎ)の曹丕(そうひ。中国、三国時代の魏の初代皇帝。在位220〜226曹操の長子)が「文章は経国(国家を経営すること)の大業」と言ったそうです。人間は他人の中傷に対してどこまで弁解せずに居られるかです。なぜでしょう?、弁解すれば自己弁護が入り、他人を云々して責任転嫁してしまうことにより、人間性が卑屈になり、矮小化してしまい、結局は誰にも信頼されなくなるのです。
そもそも「心学」には「こんな生き方をしてはいけない、もっとちゃんとした生き方をしなければいけない。お前の生き方は間違っている」と反省させる力をもっているのです。
そこで魏の曹丕は「文章は経国の大業」といったのでしょう。いかに国民に文を学んでもらえるかを苦心したのです。
人間は「好き嫌いで人を見ます」、このことはいくら格好をつけて言い訳しても真実です。であるならば、人間としてどんな人間を好きで嫌いかを確かにすべきでありましょう。
この「二者択一」が曖昧になるのは「打算であり、欲得尽くであり、利害である」からです。このことを己自身で確かにできない人間はいくら言葉を飾っても「損得・欲得の世界から抜け出せない」のです。それを「戯論(けろん。無益な言論。無意味な論)」といいます。
人間は欠点は誰でも持っています。その欠点は「許せる欠点と、許せない欠点」があります。
私は品性下劣な人間を嫌います。それは言葉では礼を言っていながら行動では為していないからです。私たち人間は動物と違います。動物と人間の大きな違いは、「尊敬することと恥を知ること」です。特に「廉恥心を知らない人間は一人間とはなれない」のです。故に「一知己も得られない」のです。それは相手に感動して出会っているのでは無く、打算で出会っているに過ぎないからです。
今夜は「にんげん学」一宮講座「新・論語を読む」、明日は東京講座「論語を読む」です。。一人間となるためにも学びをご一緒しましょう。心学は「普遍学」だからこそ大事です、心は大地、あなたの大地に一知己の方が感動し種を蒔きたいと思ってくれることを信じています。今日も感動する一日を過ごしましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌