水の徳

おはようございます。

今朝は琵琶湖の見える旅館から書き込んでいます、元旦に拝むことが出来なかった日の出を拝み書いております。昨日修業時代のことを書きましたので琵琶湖を眺めたくなり急遽予約をして一泊しています。
久しぶりゆっくりと温泉に浸かりました、誠澄に留守を頼んで骨休めです。疲れてはいませんが時には許してくれるであろうと勝手な思いでやってきました。
昨日は小寒、さほど冷たくはありませんでしたが、風が一日中吹いておりました。これから一段と寒くなりますのでどうぞお大事下さいますよう。
琵琶湖は何度見ても大きいなぁ〜と感動します、湖(うみ)と呼んだのも肯けます、低んじておれば「全て流れ込む」という見事なお手本です。そして流れ出すのは「瀬田川一つだけ」、「一を貫いている」。
「溢(あふ)れる」。
琵琶湖に浮かぶヨットを見て私は「己に腹を立てよ」という「思考原則」を持つようになりました。
老子は「上善如水(じょうぜんにょすい)」と言い表しております。私の「信仰仏」は「辯財天様」、いわゆる水の神であります。
何者にでも「徳」がありますように、水にも「水の徳が」あります。水の徳は「万物を育む」のが一等の徳です。何故万物を利沢し生育することが出来るかと申しますと、「争わない」そして「低きにつく」からです。
水は流れるべき所に流れ、流れることの出来ないところへは流れないのです。このことは「信の確立」でもあります。私たちが発する言葉もこれと同じく「信を守る」ことが大事です。信を守るという意味は、「言ったことを行う、行ったことを言う」という「真実」です。
自分の意見が正しいと心底思っているならば、人は「争わない」のです。争わず「己の目とするところを失わない、忘れない」のです。このことは水の徳の「柔」と同じです。「水は、岩をもうがち、硬い鉄も水中では腐食させるのです」。これは柔なるが故であります。
水は方円の器に従い、自分を固執することがなく、水の徳に学ぶことは大なるものがあるのです。
ところが多くの人は意見の相違がありますと「目を忘れ他と争い途中で投げ出す」のです。心が「硬い、固定観念に縛られて目を忘れてしまう」のです。
水は穴が有れば「穴を充たし」その後に又流れ出すのです。流れることを失わないのです。私たちもこの「水のように」在れば、必ず目的を達することが出来るのです。
己を見失うことがなければ「必ず時が来たり」私たちの才能があふれ出し周囲の人々を己の能力で潤すこととなるのです。
水は「一定の形はありません」、故に「全ての形と為し」周囲を感化するようになるのです。琵琶湖も水が一杯になれば溢れだし、万物を育んでいるのです。
流れるが故に腐らず、自身を腐らせず、いつも清らかに在ることができるのです。
道理を忘れ出し惜しみをして歩むようであれば己を腐らすこととなるのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌